以下はランドール・J・ブラウンの本「キリストを体験する:救い主へのあなたの個人的な旅路」(5961)からの抜粋です。「キリストを体験する」は2009年にシーダー・フォート社から出版されました。この抜粋で,ブラウンはイエス・キリストの贖いはキリスト教の教義の根本であり,その真理をわたしたちの心にどのように刻むことができるか、手と足に釘を打ち付けられできた主の傷を用いて説明しています。ブラウンはモルモン教とも呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会に所属し,イエス・キリストに献身的に従う弟子です。

 

主の傷跡に触れるということ

ヘンリー・B・アイリング管長はかつてヒンクレ―大管長が次のように話すのを聞いたと述べています。「わたしたちは福音を自分の心の中に刻むことにおいて,より向上しなければなりません。」アイリング管長はそれから次のように言いました。「わたしは一つの方法を知っています。最も良い方法は,そして恐らくただ一つの方法はヒンクレー大管長のチャレンジに応えることです。つまり自分たちの行いすべてを、キリストの贖いに焦点を当てるということです。」(「キリスト教の教義のルーツ」BYUマガジン(2006年秋):45

キリストとの関係を経験することの一部は,キリストの苦しみの象徴を経験するということです。キリストの贖いはキリスト教の教義の根本です。あなたは福音について多くのことを知っているかもしれません。なぜならキリストの贖いから枝が伸びているからです。でも,もしあなたが枝だけを知っており,それらの枝が根に繋がっていないと,つまり枝が真理から切られているとそこには生命や本質や贖いがありません。トーマス・B・グリフィンは次のように述べました。「キリストの苦しみの象徴に触れると、わたしたちにショックを与え、へりくだった気持ちにさせ,感謝の深い気持ちを呼び起こすはずです。」(同書)

イエス・キリストがアメリカ大陸の「他の羊」に姿を現されたとき,主は御自分を紹介されました。

「見よ,わたしはイエス・キリストであり,世に来ると預言者たちが証した者である。

見よ,わたしは世の光であり命である。わたしは,父がわたしに下さったあの苦い杯から飲み,世の罪を自分に負うことによって父に栄光をささげた。わたしは世の罪を負うことによって,初めから,すべてのことについて父の御心に従ってきた。」

さて,イエスがこれらの御言葉を語り終えられると,群衆は全員地に伏した(3ニーファイ111012)。

群衆はキリストの来臨についての預言が成就したことを知ると,地にひれ伏しました。恐らく理由は他にもあったでしょう。すっかりびっくりしてしまった人,不思議と驚きでいっぱいになった人,理由は何であれ,主は人々に立ち上がって近づくように話されました。そこにいた一人一人が主の苦しみの傷跡を自分自身で見てほしかったのです。主は次のように話されました。

「立って,わたしのもとに来て,あなたがたの手をわたしのわきに差し入れ,またわたしの両手と両足の釘の跡に触れて,わたしがイスラエルの神であり,全地の神であること,そして世の罪のためにころされたことを知りなさい。」(3ニーファイ1114

これは短時間でできることではありません。この人々は一日中とは言わないまでも,救い主を知る機会のために,おそらく何時間も待ったことでしょう。しかし彼らは自分の番が来て,救い主の苦しみの傷跡をはっきりと見て触れるのをひたすら待っていたのです。

復活された主の前に立ち,はりつけの傷跡に触れる経験は一人一人に個人的に強い影響を与えたはずです。3ニーファイ11章には群衆が進み出て手で触れ,目で見て,主が世の救い主であることを「確かに知りました」。

「そこで群衆は進み出て,主のわきに手を差し入れ,また主の両手と両足の釘の跡に触れた。彼らは一人ずつ進み出て,全員がこのようにし,自分の目で見,自分の手で触れ,この御方が,将来来られると預言者たちによって書き記された主であられることを,確かに知って証した。」(3ニーファイ1115

この経験は人々にとってそのように大きな経験となり,彼らは皆「ホサナ!」と叫びました。これは「今お救いください!」という意味です。

「彼らは全員進み出て,自ら確認した後,一斉に叫んだ。『ホサナ。いと高き神の御名がほめたたえられますように。』そして,彼らはイエスの足もとに伏してイエスを拝した。」(3ニーファイ111617

群衆はそれから再び地にひれ伏しましたが,この時は違う理由でした。彼らが地にひれ伏した時,彼らはイエスを賛美しました。人々は個人的に主の苦しみ,主の偉大な最後の犠牲を目の当たりにしたのです。キリストが苦しんだことを実感するのはショッキングなことだと思います。わたしは彼らが他の方法では経験できなかった救い主の愛を実感するため,彼らの目を覚ますためだったと確信しています。この経験が人々に主を賛美する深い望みを与えたのです。

 

主の苦しみの象徴である聖餐

わたしたちもまた、救い主がわたしたち個人のために苦しまれたことについて、畏敬の念を抱くようなショックな気持ちを経験するべきではないでしょうか。わたしたちが聖餐をとるとき,主の苦しみの象徴はわたしたちの心に主を賛美する深い望みを作り出すはずです。それはわたしたちが深い意味深い方法で「ホサナ」と叫ぶようにするはずです。

パウロはローマ人への手紙の中で,わたしたちが主と苦しみを共にするなら,キリストの子供となり,主の共同の相続人になると教えました。

「もし子であれば,相続人でもある。神の相続人であって,キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上,キリストと共同の相続人なのである。」(ローマ817

使徒パウロは真理を、つまりわたしたちが贖いの真理を受け入れる時、キリストの共同の相続人となれるという真理を話したことを証します。それゆえ、わたしたちは聖餐の象徴(キリストの肉と血を象徴するパンと水)で、主とより偉大な関係を持つこととなります。モルモン教の聖徒にとって,聖餐をとるということはバプテスマの聖約(神と人との双方向の約束)を思い出すことでもあるのです。今朝,わたしはモルモン教の十二使徒であるジェフリー・R・ホランド長老の霊感に満ちたお話を読みました。それは聖約を覚えるということに関連したものです。

「聖約は福音の計画の中でわたしたちが話し合うことのできる最も基本的なことです。なぜなら聖約を作る方と守る方だけが日の栄の王国(天国の最高位)の究極の祝福を要求できるからです。…聖約を守るということについて話すとき,わたしたちは死すべき状態におけるわたしたちの目的の核心について話しているのです。(「聖約を守る:伝道に出る人へのメッセージ」エンサイン,20121月号)

わたしは贖いについて,そしてそれが末日聖徒イエス・キリスト教会を通して可能な聖約を守る,ということにどのように関連するか,モルモン教の宣教師と会って皆さんがさらに学ばれるようにお勧めします。もしそうするならば,皆さんもキリストの傷跡を象徴的に,しかし非常に現実的な方法で体験できるようになると証します。わたしはわたしの家族に福音を教え,家族が贖いの祝福を受けられるようにしてくれた宣教師にいつも感謝しています。彼らのおかげでわたしの永遠が変わりました。

 

要約

書名:イエス・キリスト―主の傷跡を体験する

著者:アシュリー・ベル

内容:ランドール・J・ブラウンの「キリストを体験する:キリストがわたしたちを贖うために,すべての苦しみ,病気,悲しみをどのように体験したかを共有する救い主への個人的な旅路」からの抜粋

アシュリー・ベル:22歳の妻,母親,ブリガム・ヤング大学卒,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員。趣味はランニング,料理,庭仕事,読書,そして一番は家族や友人と過ごすこと。