今回の記事では、2015年3月の中央女性集会でのアイリング管長の話を使います。それと同時に新約聖書とモルモン書を参照します。モルモン教の会員として、キリストのようになることがあらゆる活動の目的です。キリストの思いやりは、主の本質を表しています。

そのお話の中で、アイリング管長は、本質的には他の人たちの重荷を軽くし、悲しむ者とともに悲しみ、慰めを必要とする人を慰めるという願望があるために、モルモン教の会員はバプテスマを受けるのだと述べています。聖霊の賜物を得るということは、このような願望をもっと完全に達成するために受けるものです。

 

新約聖書に出てくるキリストの思いやりの模範

ヨハネ11章の中にラザロの話が出てきます。わたしはそれを何十回も読みましたが、最近読んだ時には今までなかったように、ある点が自分に迫ってきました。その話の最初の部分は次のようです。

マリヤとマルタとラザロは兄弟で、イエスとは良い友だち以上の深い関係がありました。主はこの3人を愛しておられ、彼らは主を愛していました。わたしたちはイエスに親友がいたとか、社交的な関係があったとか普通考えませんが、明らかに主はある時期には本当に親しい関係の人たちがいました。

この姉妹たちはイエスにメッセージを送って、彼らの兄弟が病気であると知らせました。このメッセージが届いた頃には、ラザロは既に死んでいました。イエスはラザロが死んだことを知っていましたが、この状況はその死ではなく、神に与えられる栄光をあらわすものだと語られました。主はご自分が彼を死から蘇らせることを御存知でした。

ユダヤ人は、死者が本当に死んだかどうかを確認するために3日待つことを慣習にしていました。ですから、イエスは4日間経つのを待ちました。誰も彼が本当に死んではいなかったのだと言うことがないためです。それを御存知で、その姉妹たちのところに行ってラザロを彼女たちのために生き返らせるおつもりでした。イエスは幸せに感じていたことでしょう。主は御父に栄光をもたらし、すべての人々に主の力を示されることになっていたからです。

しかし、主がマリヤとマルタに会ったときに起こったことに注意してください。この2人の女性は兄弟が亡くなったことで動揺していました。二人は別々に、イエスに自分たちがもし主が共に居てくださったら兄弟が死ななくて済んだだろうと伝えました。彼らにはイエスが彼を癒すことができるという信仰があったからです。

イエスのところにマリヤが来たとき、主を見て、足元にひれ伏して語ります。「主よ、もしあなたが一緒にいてくださったなら、わたしの兄弟は亡くならかったでしょう。」

ですから、イエスが彼女の泣いているのを見て、また一緒にいたユダヤ人たちも泣いているのを見て、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われました。「彼をどこに置いたのか。」彼らはイエスに言った。「主よ、きて、ごらん下さい。」イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか。」(ヨハネ11:32−36)

この状況を見たら、わたしは感情のことは少し脇において、大局的に何が起こっていたかを考えなければなりませんでした。イエスは愛するラザロがどこにいるか御存知でした。主は、ラザロは大丈夫で、すぐに自分の姉妹たちと歩き回ることを御存知でした。そのような知識によって、幸せな気持ちをお感じになったはずです。それでも心から愛する2人の女性が苦しむのをご覧になって、「激しく感動し、また心を騒がせ」られたのです。

彼女たちの悲しみを痛いほどに感じたために、感じやすくなっていた心で、御子でありこの宇宙の創造主である御方が、その悲しみを思って涙を流されたのです。その状況に対する主の見方がどのようなものであれ、彼女たちをそれほどまでに悲しませるのであれば、それを感じないわけにはいかなかったのです。憐れみに満たされて、ラザロが横たわっている墓に連れて行ってくれるように頼みました。

キリストの憐れみについての感動的な光景、他の人々に対する易しい気持ちは新約聖書以外にも表現されています。ニーファイの地に現れた時にも他者に対する憐れみの表現が見られました。

 

モルモン書の例

アイリング管長が語られたように、このシリーズの1番目の記事で検討したバプテスマの聖約の一部として、他の人々の重荷を軽くしたいという望みがありました。彼は、「聖霊の賜物を受けた時、このような重荷を軽くする助けになる力を与えられている」と述べました。聖霊は大いなる清めの力を持ち、偉大な教師であり、わたしたちのメンターです。神会での役割は、わたしたちを御父のもとに導き、キリストのようになる方法を教え、御父と御子について証することです。

イエスがニーファイ人を訪れた時、福音を教えられました。彼らと共にとどまられた時間は、パレスチナでユダヤ人たちと一緒におられた3年間と比べると、短いものでした。人々と共におられた期間の終わりに近く、1日中語られて、彼らが話されたことをあまり理解していないことにお気づきになりました。主は彼らに家に戻って、天の父に理解力を求めて祈るように命じられ、翌日もっと教えることを伝えられました。

しかし、主が周りの人々をご覧になって、その表情に主がその晩の間だけでも去ってほしくないと思っている気持ちを受け止められて、哀れみの情に満たされました。3ニーファイ17:5−7に次のように書いてあります。

「さて、イエスはこのように言うと、もう一度群集を見回して、彼らが涙を流しながら、もうしばらくとどまっていてほしいと願うかのように、イエスをじっと見つめているのを御覧になった。そこで、イエスは彼らに言われた。『見よ、わたしの心は、あなたがたに対する哀れみに満たされている。あなたがたの中に病気の者がいるか。彼らをここに連れて来なさい。足の不自由な者、目の見えない者、足の悪い者、手の不自由な者、らい病にかかっている者、体のまひしている者、耳の聞こえない者、彼らをここに連れて来なさい。癒してあげよう。わたしはあなたがたのことを哀れに思い、わたしの心は憐れみに満たされている。』」

御自分の民に対して主のお感じになった憐れみの心からなさったことは彼らを苦しみから解放し、重荷を軽くすることでした。すぐに不自由な者、あるいはあらゆる苦しみにある人たちをつれてくるようにおっしゃいました。そして、彼らを皆癒されました。

人々を癒したイエス・キリスト

人々を癒したイエス・キリスト

しかし、そこで終わりませんでした。主は彼らとともに祈り、彼らのために祈りました。彼らの主に対する信仰を見て、主は喜びに満たされて、再び涙を流されました。それから彼らの子供たちすべてを祝福し、それから再び涙を流されました。3ニーファイ17章18−22節には次のように書いてあります。

「さて、イエスは御父に祈り終えると、立ち上がられた。しかし、群衆は喜びが非常に大きかったので力を失っていた。そこで、イエスは彼らに語り、立ち上がるように命じられた。そこで、彼らは地から立ち上がった。すると、イエスは彼らに、『あなたがたは信仰があるので、幸いである。見よ、わたしの喜びは満ちている』と言われた。そして、イエスはこれらの御言葉を語ると、群衆はそのことを証した。また、イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し、彼らのために御父に祈られた。そして、イエスはこれを終えると、また涙を流された。」

優しい心について語りましょう。わたしたちは他の人々をこのように気づかっているでしょうか?わたしたちがバプテスマの聖約を守り、御霊に近くとどまっている時に、もっとイエスのようになることができます。

 

新約聖書に戻って

キリストのわたしたちに対する関心は、主がたまたま生きている間にわたしたちの身近におられたので、偶然主の時間と注意をそれに向けるようになったものというのではないのです。アイリング管長の話の中で、彼が語ったのは、救い主の関心はわたしたちの必要を満たすことで、それは十字架にもうすぐかかるような時点においても、主の思いの一番大事な部分にあったということです。

十字架にかけられる間際にあっても、救い主はご自分が人々の重荷を軽くし、それを担えるように力を貸そうとしていたと表現なさいました。主はご自分の弟子たちが悲しまれるであろうことを知っていました。彼らが将来のことを恐れるであろうことを御存知でした。どのように前進したらよいか定かでないと感じるであろうことを御存知でした。

ですから、主はわたしたちとそのすべての真の弟子たちに対して約束してくださいました:

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」(ヨハネ14:16−17)

キリストのいない間、主は聖霊を送って、わたしたちを教え、引き上げ、互いに助け合うように支援してくださいます。わたしたちに対するキリストの思いやりはこの世を越えて及んできました。その死に際しても、希望を持って進むことができるように道を備えてくださいました。

イエスのいない間にも、わたしたちはみな互いの重荷を担うように聖約しています。そうすることが、主の王国の会員としてわたしたちが聖約することの一部です。わたしたちが他の人を助け強める時に、わたしたちが助け強められるように、主は聖霊の賜物を与えてくださいました。わたしたちがその声に耳を傾け従うことに時間をとればとるほど、他の人々の重荷を引き上げ、救い主が豊かに示してくださった思いやりを感じることがもっと良くできるようになります。

わたしたちの目標は、主と同じように思いやりがあり心の優しい人になることです。わたしたちが孤独な人を探し求め、貧しい人に食べ物を与え、裸の人に着せようと努めれば努めるほど、キリストのようになるのです。主の語った小さな奇跡は、もしわたしたちが兄弟たちの中で最も小さな者にした事は、主に対して行なったことになることです。主は、本当にわたしたちの気持ちを感じることがおできで、わたしたちが経験しなければならないことを御存知で、わたしたちに聖霊の賜物をくださいます。又、互いに仕え合う機会を備えてくださり、試練の中で強められるように方法を備えてくださっています。

 

 

この記事はKelly P Merrillによって書かれました