モルモン書には、アロンという名の宣教師の驚くべき話が載せられています。異国人の中に入っていき、救いについて人々に主の教えを伝えようとしていました。

モルモン書の王、クリスチャンになる

アロンは、ある王を教える機会が与えられました。もしあなたがそのような機会を与えられたら、どうしますか。彼はその機会を使い、王にとても大胆に教えました。彼は、自分よりも目上の王を怒らせないように、曖昧なことを言って時間を無駄にすることはありませんでした。王には不安にさせている事柄、疑問がありました。アロンは、王が必要としていた答えを与えたのです。

王はアロンに、もう一人の宣教師アンモンが教えたことについて尋ねました。アンモンは王の息子に、もし私たちが悔い改めるならば救われるが、悔い改めなければ終わりの日に捨てられると言いました。王はその意味が分からず、捨てられることになりたくないので、心配していたのでした。

アロンは、王がその時点で信仰においてどこに位置するか評価することから始めました。王に神を信じるか尋ねました。すると王は、王国に住むアマレカイ人が神がいると言っているのを知っており、神を礼拝するための教会を建てることを許したと、慎重に答えました。しかし王のアロンに対する信頼がとても大きかったので、もしアロンが神がいるというならば、それを信じると言いました。

王は、はるか昔に先祖をエルサレムから導き出した大霊について聞いたことがありました。彼は、大霊こそが神なのか尋ねました。アロンはそうだと答えました。同じお方を違う名前で呼ぶことは、問題ではありませんでした。王の呼び方を受け入れ、正しい呼び方を紹介し、共通の見地に立ちました。その大霊が、すべてを創造した神だと説明しました。

王は、それを信じると言い、教えられたことを信じることを再び約束し、もっと教えてくれるようにアロンに頼みました。アロンは創世から始めて、世界の宗教的歴史を教え始めました。それから、イエス・キリストの贖いを紹介しました。それはその時点ではまだ起きていないことでしたが、預言者はそれが起こることについて知っていました。アロンは言いました。

また人類は堕落したので、自分自身で何も良い報いを得ることはできなかった。しかし、信仰と悔い改めなどによって、キリストの苦しみと死が彼らの罪を贖うのである。そして、キリストは死の縄目を立ち、墓は勝利を得ず、死のとげは栄光の望みの中に飲み込まれてしまう。アロンはこれらのことをすべて王に説き明かした。(アルマ22:14

悔い改めとイエス・キリストの贖い

王は、この贈り物を受けたくて仕方がありませんでした。贖いを受けるためには、王は何でも、王国でさえ手放すと言いました。どのようにするのかを知りたいと願いました。アロンは、その必要はないと安心させました。

しかしアロンは王に言いました。

「あなたがこのことを願い、神の御前にひれ伏すならば、まことに、あなたの罪をすべて悔い改め、神の御前にひれ伏して、与えられると信じて信仰をもって神の皆を呼ぶならば、そのときあなたは、今、願っているものを得るでしょう。(アルマ22:16)

王はすぐに地に平伏し、祈り始めました。王は、自分に神のことを知らせてくれるように願い、誓いました。

「私はあなたを知…るように自分の罪をすべて捨てます。」

人々が救いについて話すとき、イエス・キリストが救い主であると認める祈りを一度すれば、それで終わりのように話すことがよくあります。しかし新たにクリスチャンになった王は、キリスト教の生きる道は、ただ一度宣言する以上のものであると理解していました。彼の罪を捨てる必要があったのです。それは、神への贈り物です。クリスチャンであるということは、言葉の問題ではなく、生活、情熱、愛の問題だと認識していました。

私は王が使った用語に感動しました。「自分の罪を手放す(捨てる)」という表現は、少し抽象的に思える物事に具体的なイメージを作り出します。二度と同じ罪に戻らないよう、罪を包み込んで、イエス・キリストに手渡す様子が頭に浮かびます。イエスがそれを開いて、それから、私が手放したものを恋しいと思うことさえもない時点まで、人生を変える手助けをして下さる様子が頭に浮かびのです。

どんな罪をイエス・キリストのために捨てようと思いますか。イエスは、もし私たちがイエスを愛するならば、私たちは戒めを守らなければならないと、教えました。本質的にそれが王が伝えていたメッセージです。王は、新しく見つけた神とイエスに対する愛のために、罪を捨てようとしていました。それは、天への救いの道を自分の力で得ているのではありません。モルモン書が述べているように、救いはイエス・キリストを通してのみもたらされます。しかしもし、自分の罪を捨て自分の生活や性質を変えないならば、イエス・キリストを救い主として受け入れるのにどんな意味があるでしょうか。それは単に意味のない行為になり、神が意味のない行為に関心を持たれるとは思えません。

自分の人生における罪を振り返ってみてください。私たちには皆、罪があります。あなたの神に対す愛と比べて、意味がないものはどれですか。それらの罪を捨てる用意ができているか吟味してみてください。

 

この記事はテリー・リン・ビトナーによって書かれました