世界中の多くの人は世の中のひどい行為や出来事に直面して、愛ある神がそのようなことを許すはずがないと考え、神の存在を疑問視しています。しかし、そのような悪から受ける経験は、私たちのこの世での経験の必要な一部なのです。少しその点について学べば、そのことがもっとよく理解できるようになります。そのことについて、聖書やモルモン書を通して、悪が存在する目的についてもっとはっきり知ることができます。

「それは、すべての事物には反対のものがなければならないからである。(中略)もし事物に反対のものがなければ、義は生じ得ないし、邪悪も、聖さも惨めな状態も、善も悪も生じ得ない。そうすると、すべての事物は混じり合って一つとならざるを得ない。したがって、事物が一体となるならば、生も死も、朽ちる状態も朽ちない状態もなく、幸不幸も、意識も無意識もなく、死んだ状態で続かなければならない。」(2ニーファイ2:11

暗闇がなければ明かりはありません。上がなければ下もないのです。こういう物事は比較の問題であって、理解されるためには反対のものが要ります。良いこと、聖なること、正義、幸せ、喜びが存在するためには、その反対のものがなければならないのです。苦いものを経験するまでは、甘いものを正しく理解する比較の対象がありません。

反対の勢力を経験することは、私たちが成長し学ぶための機会になります。それが身体、精神、霊的な格闘を生み、その格闘が人格を作ります。その過程の圧力がダイアモンドを生みます。運動が忍耐力を、また勉強が知性を生むのと同じです。以下の聖句は、モルモン教の預言者であるジョセフ・スミスが苦難の最中に受けた勧告です。

「また、たとえあなたが穴の中に投げ込まれたり、殺人者の手に渡されたりして、死刑の宣告が下されても、たとえあなたが深みに投げ込まれても、たとえ寄せてくる大波があなたを巻き込もうとしても、たとえ暴風があなたの敵となっても、たとえ天が暗黒を集め、すべての元素が結束して道をふさいでも、また何にも増して、たとえ地獄の入り口が大口を開けてあなたをのみ込もうとしても、息子よ、あなたはこのことを知りなさい。すなわち、これらのことはすべて、あなたに経験を与え、あなたの益となるであろう。」(教義と聖約122:7)

神が与えられた選択の自由

どのようにして悪いことが私たちの益になるのでしょうか?この聖句が当てはまらないと思われるような悪によるひどい経験について考えることもできるでしょう。子供の虐待とか、飲酒運転による事故とかです。栄養失調の子供たちが貧しい国には大勢います。天災やテロによる被害者もいます。誘拐、人身売買、強姦や殺人。これらの経験がどうして益になるのでしょうか?ある場合には強い人格を養い、被害者にキリストのような愛と同情の気持ちを赦しを通して育てることにもなります。他人が被害に遭ってるのを見て同情したり、慈善行為に促されることもあります。しかしそのような著しい被害を受ける人々にとって、そのような経験にプラスの効果があるという事実は、あまり慰めにはならないかもしれません。

この世での経験は自分たちの選択の自由を行使する時期で、神はそのことをさまたげることをなさいません。それは私たちの生存の目的を台無しにすることだからです。多くの悪やその結果に煩わされることは、その選択の自由を誰かが行使したからです。私たちの選択には避けることができない、また取り返しのつかない結果が付きます。更に人は、その結果に対する責任も引き受けなければなりません。

「そのため、人は肉においては自由であり、人のために必要なものはすべて与えられる。そして人は、すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも、あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。悪魔は、すべての人が自分のように惨めになることを求めているからである。」(2ニーファイ2:27

選択の結果は、かけ離れたことにも波が及ぶ可能性があります。無実の人が苦しみ、問題を起こした張本人はほとんど被害を被らないということもあります。しかし、いずれはすべてのことが正される裁きの時が来るのです。このことについてのすばらしい例と説明がモルモン書にあります。昔の預言者アルマとアミュレクは捕らえられ、キリストに対する信仰に改宗した人々は火に焼かれました。アルマとアミュレクは神の力によって手を伸べて、これらの無実の女性や子供たちをおぞましい死から救うことをしませんでした。

「しかし、アルマは彼に言った。『御霊が、手を伸べてはならないとわたしを制されます。まことに、主はこの人々を栄光のうちに御自分のみもとに受け入れられるからです。主は彼らがこのことを行うのを、すなわち人々が心のかたくななままにこの人々にこのことを行うのを黙認しておられます。それは、主が怒って彼らに下される罰が公正なものとなるためです。罪のない者の血は彼らを責める証拠となり、終わりの日に彼らを非難して激しく叫ぶことでしょう。』」(アルマ14:11

もし神が世界中のすべての悪行をやめさせたとしたら、最後の裁きの正当性がなくなってしまいます。誰かをもしかしたら犯したかもしれない犯行によって裁く、などということができるでしょうか?私たちの法律について考えれば、そのような裁きが不可能であることが明らかです。誰かが悪の行為をするのを傍観しなければならないという状況はひどいもので心を痛めるものですが、一方もし誰かが実際犯しもしなかったことによって裁かれるというのも正確で正当な合法的な行為ではありません。しかし、私たちは主がすべての悪をお止めにならなくても、ご覧になっている悪の行為を見て涙を流されていることを知っています。

「すると、天の神が民の残りの者を見て泣かれた。エノクはそのことを証して言った。『どうして天が泣き、雨が山々に降り注ぐようにその涙を流すのですか。』また、エノクは主に言った。『あなたは、永遠から永遠にわたって聖なる御方であるのに、どうして泣くことがおできになるのですか。』(中略)

主はエノクに言われた。『これらあなたの兄弟たちを見なさい。彼らはわたし自身の手で造られたものである。わたしは彼らを創造した日に、彼らに知識を与えた。また、エデンの園で人に選択の自由を与えた。わたしはあなたの兄弟たちに語って、互いに愛し合うように、また父であるわたしを選ぶようにという戒めも与えた。ところが見よ、彼らは愛情がなく、自分の血族を憎んでいる。(中略)

しかし見よ、彼らの罪はその先祖の頭にある。サタンが彼らの父となり、彼らの行く末は悲惨なものとなる。そして、すべての天が、まことにわたしの手で造られたすべてのものが、彼らのために泣くであろう。それゆえ、これらが苦しむのを見て、どうして天が泣かないということがあろうか。』」(モーセ書7:28-29,32-33,37)

選択の自由と善悪を通して成長する神のこども

選択の自由と善悪を通して成長し自分たちの益とする

悪が存続する二つの理由

ですから、神が必ずしも悪の働きを止められない理由が2つにまとめられます。一つは反対のものを経験できるようにするためです。それによって学び、成長し、そして強められるためです。悪の存在があるからこそ、善の存在があり、それによって私たちに選択の余地が与えられます。2番目の理由は、私たちの選択についての裁きが正統なものとなるためです。私たちの行為がある特定の結末を生み出すことを許され、それによって私たちはその結果に責任を持たされるのです。

愛ある親が子供が失敗から一番学ぶことを知っているように、神は私たちが自分の行為の結果に直面し、それによって苦しむようになることを許し、私たちが学び知恵において成長するようになさるのです。また正義のある判事のように、神は犯されなかった行為について罰することはなさいません。このことを知ることは、私たちが神の特徴と性格を理解する助けになります。そしてたとえこの世は悲しみや苦しみに満ちていようとも、私は神が私たちを愛していることを知っていますし、私の行為によって神が悲しみではなく喜びの涙を流してくださるように願っています。

この記事はメリッサ・デモウによって書かれました。