私は救いがゼロ和ゲーム(一方が勝つと別の方が負けるゲーム)ではないことを内面で本当に理解した時の瞬間を覚えています。競争社会の中で洗脳されていて、私は潜在意識的に、自分が勝つためには他のだれよりも「より善くて」「より一生懸命努力し」なければならないと感じていました。しかし、イエスは福音を私対他の人という比較で表現してはいなかったのです。私の唯一の競争は自分自身を把握して、克己心を磨くことです。そして、その時でさえ、イエス・キリストの贖いによる恵みなしではそのことを達成することを望むことさえできないのです。

末日聖徒イエス・キリスト教会、しばしば誤ってモルモン教会と呼ばれる、は「キリストの贖罪により、全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われうると信じる。」(信仰箇条の第3条)と教えています。

救い主の救いの恵みが約束していることは、私たちが主と共同の世継ぎになるということです。すなわち、次の世で、神が与えて下さる賜物を主と共有するということです。

キリストと共同の世継ぎとは何でしょうか?

mormon-jesus1主の完全な生活、働き、それに神の初子である立場から、イエス・キリストは神の持てるすべてのものを受けると約束されました。「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」(ヘブル1:2)多くの古代のまた現代の文化では、似たような形式で相続や生得権が定められています。長子が、長男ではなく、相続するという習慣に長い間興味を持ってきました。その生得権のある長子がその受け継ぎを他の兄弟に分けることはまれです。そして生得権が実際みんなに分配されるとしたら、相続自体が少なくなってしまわないでしょうか。

私にとっては、その答えは神ないしは神権の力とその知識の中に見いだされました。イエス・キリストの相続するものは、「物」だけではないのです。それは神の力をもって行動する機会です。私が救い主に似た者になろうと学び、やがて父なる神のようになろうとする時、私たちは彼らの特性を身につけます。神は私たちにその神権(神の名前によって行動する権能と権威)を使うことを許して下さり、私たちは家族という単位で、それを作り、大きくし、成長し、続けます。そして栄光と誉れを御父に戻します。

パウロはガラテヤの4章でこの概念を美しく説明しています。

「わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕と何の差別もなく、父親の定めた時期までは、管理人や後継人の監督の下に置かれているのである。それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力のもとに、縛られていた者であった。しかし、ときの満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法のもとにある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。」(ガラテヤ4:1−7

ローマ人への手紙の中で、パウロが宣言したのは、「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」(ローマ8:16−17

救い主の御業がこの原則を表しています。イエスは十二使徒を召しました。主は彼らを教えました。あたかも自分の子供のように、本当の福音を教え、彼らに信仰と神の権能をもって奇跡を行う方法を示しました。主は彼らを人々の中に送って、自律した方法で働きをさせました。それから彼らは戻って、主からもっと多くのことを教えてもらいました。定められた時に、イエスは贖いをし、十字架に付けられ、復活なさいました。復活の後で、主は使徒たちを教え続けました。それから、主は御父のところへ戻りました。そして使徒たちは、息子として、主のこの地上での業を前進させ、主の神聖な導きのもとにありました。イエスは彼らに鍵を託し、彼らは王国を築き続けました。

イエス・キリストと共同の相続者となる

復活後、救い主はアメリカ大陸を訪れられ、忠実な人々にパレスチナで教えた教義を教えました。モルモン書には主の彼らに与えたチャレンジと約束が記されていますが、それらのことは究極的には私たちにも当てはまります。

「したがって、あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに、あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」(3ニーファイ27:27

主が人類に対して抱いていた信仰は恐れ入るものです!永遠の父なる神とイエス・キリストは私たちに彼らのようになる方法を与えてくれました。それは戒め(生きるための規則)、聖約(2方向の約束と義務、人によって遂行され、神から約束された祝福が来る)、儀式(形式的な行為、例えばバプテスマ。それは人の神の御もとへ戻る旅を、文字どおり、しかも象徴的にも教えるもの)を通して可能になります。私たちがイエス・キリストの御名によって悔い改める時に、赦しが約束されています。私たちの神に対する信仰が増すにつれ、私たちが神のようになりたいという望みも強まります。私たちの関係は強まり、私たちは主を知るようになります!

「預言者たちの言葉を聞き、主が御自分の民を贖われることを信じ、自分たちの罪の赦しのためにその日を待ち望んできたすべての人、わたしはあなたがたに言うが、これらの人々が御子の子孫なのである。すなわち、彼らは神の王国を受け継ぐ者である。」(モーサヤ15:11

預言者ジョセフ・スミスは天の示現について描写していますが、それによって神の約束の内容を、かいま見ることができます。

「天がわたしたちに開かれ、わたしは神の日の栄えの王国とその栄光を見た。それが体のままであったのか、体を離れてであったか、私には分からない。わたしは、その王国を受け継ぐ者たちが入る門のたぐいない美しさを見た。それは回転している炎のようであった。わたしはまた、輝く神の御座も見たが、そこには御父と御子が座しておられた。わたしはその王国の美しい街路を見た。それは金を敷き詰めたかのようであった。(教義と聖約137:1−4

主の子供たちとして、私たち一人一人は御父の持てるすべてのものが約束されています。私が神の意志と一致した時にだけ、私は神に似た者になります。そして神の意志とは神のすべての子供たちが救われることです。人生を競争と考える代わりに、今や私は自分の周りの人たちに仕え、その人たちを引き上げることの大切さに気づいています。そして救い主とともに、私たちは神の御もとに戻り、神の偉大な栄光に満ちた約束を受けることができるのです。私は神が生きておられることを、イエスがキリストであることを知っています!もし救い主の贖い、恵み、または神のところに帰るために必要な戒め、聖約、儀式についてもっと知りたければ、モルモンの宣教師にコンタクトして情報を得て下さい。

この記事はdelisaによって書かれました。彼女は末日聖徒イエス・キリスト教会の会員で、66回引っ越しをしましたが、この美しい地球にまだ飽きていません!彼女は人々、言語、歴史や文化人類学、世界の宗教文化が好きです。彼女の生涯にわたる熱情は宗教的な象徴、とりわけ古代と現代における神でとの関連について研究することです。彼女のご主人のアンソニーと彼女はブルドックのウエリングトンと、冒険、旅行、映画、オートバイ、友だちや家族と過ごす時間が好きです。