救い主は、いちばん大切な第一の戒めは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ。」(マタイ22:37-38)だと教えました。(時にモルモン教会と呼ばれてしまう)末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長会の第二顧問、ディーター・F・ウークトドルフ長老は、こう説明しています。

What-Seek-Determines-AD永遠の御父なる神が第一の大切な戒めをお授けになった理由は,わたしたちが神を愛することを,神が必要となさっていたからではありません。わたしたちが神の御名を軽んじ,否定し,あるいはたとえ汚しても,神の力と栄光が傷つけられるわけではありません。わたしたちが神を受け入れ,認め,たたえるかどうかにかかわらず,神の影響と支配は時空を超えて広がるのです。

神はわたしたちに愛してもらうことを必要としておられません。むしろ,わたしたちに神を愛する必要があります。なぜなら,何を愛するかによって,何を求めるかが決まるからです。何を求めるかによって,何を考え,行うかが決まります。(リアホナ2009年11月号p21-22)

では、私たちはどのように神に愛を示せるでしょうか。救い主は、「もしあなたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」(ヨハネ14:15)と、教えました。イエス・キリストは地上での務めにおいて、世の喝采や称賛を決して求めませんでした。実に彼は、助けるために来たその人々から軽蔑されました。救い主が行い教えたことはすべて、他人を益するためでした。神を愛することは、その戒めを守ることです。なぜなら、それが私たちに幸せをもたらすからです。そして天父とその御子イエス・キリストは、それだけを、私たちの永遠の幸福と福利だけを求めています。

何を愛するかが、誰に従うかを決定する

言い換えると、私たちの望みが優先順位を決めるということです。優先順位が行いを決めます。行いが運命を決めます。(大管長会と共にイエス・キリスト教会を管理する)十二使徒定員会のM・ルッセル・バラード長老は、こう述べました。

福音は、愛の福音です。神に対する愛、お互いに対する愛。主は私たちに、模範に従うよう命じられています。私たちがどれだけ良く従っているかによって、どれだけ良い弟子かが測られます。…神の戒めは私たちにとって益であり、蒔くならば刈り入れられるということを、多くの人が決して理解することがないのではと、心配しています。(1998年4月総大会)

もし私たちが救い主を愛しているならば、私たちは彼に、そして彼が示した模範に従うことでしょう。子供たちにそのパターンを見ることができます。讃美歌作者は、「子供達は、主の受け継ぎである」と述べました。私たちは、子供たちに従うべき正しい道を教える責任があります。子供たちは純粋な愛で私たちを愛していて、私たちのようになりたいと思っています。彼らは、私たちがすることすべて、良いことでも悪いことでも、吸収し、従います。天父は、私たちが従うべき道を示すために御子イエス・キリストを遣わされました。主イエス・キリストの十二使徒ジェフリー・R・ホランド長老. Elder Jeffrey R. Holland, an Apostle of The Lord Jesus Christ,はこう説明しました。

救い主は,特に贖いの苦しみと犠牲によって,また地上に来て語り行われたすべての事柄を通して,永遠の父なる神とはどのような御方なのか,御父が,あらゆる時代と国に住む御自身の子供たちを,どれほど深く愛しておられるのかを示してこられたのです。御子は言葉と行いにより,御自分の父親である天の御父の本質を明らかにし,御父の本質を人が自分で理解できるよう努めておられたのです。

主がそうされた理由の少なくとも一つは,時代を問わず,人はだれでも神をさらに愛し,完全に従うようになるには,神についてよく知る必要があるからです。(リアホナ2003年11月号p70)

私たちがもっと完全に天父を愛し、従うようになるにつれ、天父のようになりたいという望みが増します。子供たちが私たちを愛しているので私たちの模範に従うように、私たちは救い主と天父を愛しているので、救い主の模範に従います。子供たちは、私たちを幸せにしたい、誇りに思ってほしいと望んでいて、私たちも天の父に対して同じように感じています。私たちは、神の御前に正しいと分かっている時、最も幸せです。

誰に従うかが、誰になるかを決める

生きている両親の模範に従う時には、肉体の能力でそうします。天父の模範を知り、行うためには、霊的能力でそれをしなければなりません。ウークトドルフ長老は説明しています。

「神は愛である。」ですから,わたしたちは神に近づけば近づくほど,愛をいっそう強く感じるのです。しかし,この世は幕によって天の家から隔たれているため,わたしたちは肉の目には見えないものを御霊によって求めなければなりません。(リアホナ2009年11月号)

霊的な事柄と調和しているようにならなければなりません。天父を知ろうとするには、霊、すなわち肉体に宿っている魂の純化された部分をもって行わなければなりません。霊spiritsを通して、それが聖き御霊が話しかける方法です。ウークトドルフ長老は言いました。

わたしたちは神の御言葉に添った思いや行動により,天の御父を愛する気持ちを強めて,その愛を実践します。御父の純粋な愛は,いっそう清く聖なる者となるよう,常にわたしたちを導き励ましています。御父の純粋な愛はまた,義にかなった道を歩むよう促してくれます。恐怖心や義務感からではなく,神を愛しているのでもっと神のようになりたいという心からの願いによって,そのように促されるのです。(リアホナ2009年11月号)

私たちは、従っていないものを知ることはできません。科学者になりたければ、シェークスピアを勉強してもなれません。科学を勉強しなければなりません。神に関することでも同じです。世の邪悪を勉強しても、神の事柄を知るようにはなれません。救い主が私たちのために示された模範を勉強しなければなりません。イエス・キリストの福音の律法と儀式に従順であることにより、それをします。私たちは、古代と現代両方の預言者の教えにも従います。ですから、私たちがより従順になると、霊性や神の教えがわかる能力が増します。現世での真のテスト、またはこの地上における生活は、お金をどれだけ稼いだか、人の誉をどれだけ得たかではありません。真のテストは、肉の目で天の父を見たり、肉の耳で聞くことはできませんが、天の父を探し求めて知り、御心を行おうという意思です。