小学校の裏門でよく配られていた小冊子には、イエス様が十字架にかかっている姿が描かれていました。その頃から、イエス様がなぜ十字架にかかる必要があったのかが私の疑問であり、いつかは教会へ行ってみようと思っていました。大学で東京に出たとき、その夢が叶いました。

 

クリスチャンに惹かれるが

岩手の小さな町とは違って、至るところに教会がありました。いろいろ訪問してみたうえで、クリスチャンとして教会に通ってみようと思っていた私は、実際、いくつかの教会へ通ってはみたものの、何故イエス様が十字架にかかったのかという理由を説明してくれる教会を見つけるまでには至りませんでした。

同じ疑問を持ちながら月日は流れ、就職して2年目のある日、転機が訪れます。その当時、留学を斡旋する会社に勤めていた私は、お世話した青年が、アメリカの留学先で交通事故に遭い亡くなったという、ショッキングなニュースを聞かされます。アルバイトとしてお手伝いにも来てくれていた辻君は、礼儀正しく、熱心に働くことで非常に評判が良く、親しくしていた青年でした。その彼が、無免許の友人が運転する車に乗って事故に遭ったというのです。動揺を隠しきれないまま、葬儀に出席しました。

辻君の家族は、お祖母さんの代からのクリスチャンでした。キリスト教式での葬儀に出席するのは、その時が初めてでした。おごそかに葬儀が進み、最後に彼のお母さんが参列者に話をしました。辻君のお母さんは、ご主人も交通事故で亡くされていました。そんな彼女の悲しみはさぞ深いだろうと思っていたところに、私は予期せぬ言葉を聞かされます。「息子を失ったことは非常に悲しいですが、人を殺してしまったという罪を背負って生きていかなければならない息子の友人の方が、もっと苦しいはずです。どうぞ皆さん、彼のために祈ってあげてください。」

私はその言葉を、信じられない、と言う思いで聞いていました。なぜこの人は、息子を殺した人を赦せるのだろう、そんな思いがずっと頭から離れませんでした。そして私が行きついた結論は、クリスチャンとは、これほどの良い人間になることを求められるということであれば、私には無理だ、というものでした。

それからの私は、自分には生きる価値がないと信じていましたが、自ら命を絶つほど勇気は有りませんでした。死ぬ時期が来るまでこのまま苦しい人生を過ごすのはつらいという思いを持ちながらも、毎日を投げやりに、いい加減に、なすがままに過ごすようになっていました。

そんな日々を過ごすようになって数年後、弟と同居していた東京のアパートを、姉妹宣教師たちが戸別訪問で訪れたのです。モルモン教の宣教師を知っていた弟は、快く彼女たちにドアを開け、でもこう言ったそうです。「姉なら、あなたたちの話に興味があると思います。近くのコンビニに行っていますから、すぐに帰ってくると思いますよ。」その言葉に姉妹たちは、私の帰りを期待して待っていました。会ってすぐに好印象を持った私は、レッスンの約束を作りました。でも正直、姉妹たちが本当に戻ってくるとは思っていませんでした。「また来ます。」というのは、ただの社交辞令だと。ですから、1週間後、彼女たちが本当に戻ってきたときには、驚いたと同時に、彼女たちの誠実さをとても嬉しく思いました。

最初のレッスンは非常に印象的でした。神様の絵を描くように言われ、数分後、お互いに見せ合ったとき、とても驚きました。姉妹たちは、イエス様のような人を描いていたのです。「神様って、人間のように、手も足もあるのですか。」という私の質問に、姉妹たちは、「そうです。私たちは、神様の形に造られたのです。」と教えてくれました。初めて聞くこの真理に、私は圧倒されました。『私が、神様と同じ形に?』驚き、不思議に思う気持ちがやがて、『これはすごいことだ。』という気持ちに変わりました。私が神様と同じ形に造られたのなら、私にも生きる価値がある、と感じた瞬間でした。

その価値を落とさないよう、もう少しまっとうな人生を送りたい、という思いが沸いてきました。この後、私が熱心に姉妹宣教師のレッスンを聞くようになったのは想像に難くないと思います。モルモン書を読んで、再び驚きで目が開かれる真理に出会いました。レッスンも毎回、御霊に満たされたものでした。しかし、バプテスマを受けることを決心できませんでした。辻君の葬儀での経験が尾を引いていました。

 

 

イエス様の力を借りてクリスチャンになる

私が辻君のお母さんのような寛容な人間になれるとは到底思えませんでした。私に悩みがあることを察した姉妹たちに、そのことを話しました。加えて、これまでいい加減な人生を過ごしてきた間、迷惑をかけてきた人たちを差し置いて、自分だけがいい人間になる、幸せになるようなことはできないと感じていることも打ち明けました。すると姉妹たちはこう言ったのです。「あなたが、イエス・キリストの教えに従って毎日を過ごすときに、イエス様は、あなたができないことを補ってくださいます。償えない人たちへも祝福を授けてくださるのです。そのために、イエス様は十字架にかかられたのです。あなたを助けるために。」この言葉は、もうやり直しはきかないと思っていた私に、大きな慰めとなりました。イエス様のその贖いの力を受けるために、私のすべてを捧げたい、と思ったこの時以降、バプテスマを受けたいという気持ちは私から離れることはありませんでした。

1996年9月1日、私を見つけ、教えてくれた二人の姉妹に見守られながら、私はバプテスマの水にくぐりました。水から上がって感じた、非常に温かい気持ち、イエス様の腕に抱かれて、よく戻ってきたと言われたような気持ちは、今でも決して忘れることはありません。あの時の経験を振り返る度に、主がどれほど私に忍耐し、導いてくださったかを強く感じ、感謝の念が湧いてきます。

「人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきなさい。」(教義と聖約18章10節と言う聖句を思い浮かべる時、天のお父様の愛が、神の全ての子どもたちに向けられており、私たちの帰りを待っていてくださるのを感じます。そのために、イエス様を捧げ、私たちを救ってくださった、天のお父様の愛には、感謝を言い表せない思いでいっぱいです。

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著者:吉田糸真