モルモン教とも呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会には、キリストの教えを人々に伝える宣教師がいます。宣教師は、主に18歳から26歳くらいまでの独身男性と、19歳以上の独身女性です。自身の母国で宣教師として働くよう召される人もいれば、異国に召される人もいます。宣教師たちの経歴は様々ですが、彼らすべてに当てはまることがあります。それは、伝道に出る時に主の導きと助けがあったということです。

宣教師への憧れと大学入学の決意

伝道に出る本人が気づいているかどうか分かりませんが、神様が伝道に出る道を、個人のために備えられていることは確かでしょう。小さい頃から宣教師になりたいと望んだ人もいれば、何かをきっかけに改心して伝道に出る決意をする人もいることでしょう。わたし自身、宣教師に会ってバプテスマを受けてから、宣教師になりたいという夢を持ち始めました。彼らには何か違う面影があり、どこか世とは違う光を放っていました。その光は、世の楽しみとは違って、どこか人を落ち着かせるものがありました。

しかし、家族にはなかなか「宣教師になりたい」と言うことはできませんでした。それは日本の文化や家系の問題でした。宣教師になりたいと言っても、真っ向から反対されることは分かっていました。わたしはBYUにある語学学校に進み、BYUに入学するのに必要な英語の勉強をしました。1年間一生懸命通い、日本人の人ともあまり日本語を話さず、やっとの思いでBYUアイダホ校に合格しました。語学学校から大学入学まで7ヶ月あったため、一度日本へ帰り、大学資金と伝道資金を貯めることにしました。

写真:ELCのクラスメート、先生と共に

家族の信頼を勝ち取るために

日本にいる間に、何度も伝道に出たいと母に伝えようと思いましたが、口は重たく、良い機会をうかがうこともできませんでした。どうしたら許可してもらえるのだろうか。そう考え、祈りました。ある時、大学のことを話しながら伝道について話すことを決めました。伝道にでたいと伝えると、物凄い勢いで反対されました。ただでさえ大学に行くのが遅れているのに、休学して、さらにお金を払ってまでなぜ宗教活動をするのか。そう問いただされた時に、それは神様に対する信仰があるからだと伝えました。それでも反対されたため、わたしは条件付きで許可を出して欲しいとお願いしました。その条件とは、大学に1年間通い、30単位以上とり、優秀な成績を得て奨学金を得る事でした。母は渋々でしたが、本当にそれができると思うなら、と許可を出してくれました。

2007年1月、極寒のアイダホ州レックスバーグの地で大学に通い始めました。冬学期は17単位、春学期には18単位を取りました(多くの学生は一学期に12から14単位を取ります)。その他、ボランティア活動も週に10〜20時間、そして朝4時〜8時の掃除の仕事を週に5日しました。当時は他の1年生達とアパートをシェアしていて、彼らがうるさくて夜に数時間眠れれば良いような環境でした。

写真:BYUアイダホ校にて、ボランティアグループのメンバーと

信仰と努力による祝福

そんな忙しい環境の中であっても、くじけることはありませんでした。何度も祈り、伝道に出ることは主の望まれていることだという確信を持っていました。本当に伝道に出るべきならば、どんな環境にあろうとも必ずそれを達成できるという思いがありました。その思いもあり、まだ最初の1年が終わらないうちにビショップとステーク会長と面接をし、宣教師になるための推薦状を提出しました。

ですが、1年生の二学期目に取っていた3つのクラスは少々大変なクラスでした。どのクラスも期末試験で満点に近い成績を取らない限り、奨学金への、そして伝道への道が遠のくのです。どきどきしながら期末試験に臨みました。試験の後、わたしは少し落胆しました。あまり結果が思わしくないような気がしたからです。期末試験が採点され、インターネットに掲載されるまでの数日間から1週間、不安に思いながら1時間ごとに成績を確認しました。1つのクラスでは必要な点数を取れましたが、ほかの2つのクラスは数点足りないことが分かりました。どうしても心配で教授にメールをすると、1人の教授は「あなたの期末試験の成績は300人の生徒の中で1番だったから、成績について心配しなくてもいい」と返事が返ってきました。そして、もう1人の教授は「4つのテストすべての成績はとても良く、成績が足らないのはグループに引っ張られてるだけだからAをあげよう」と言ってれました。それを聞いて、ようやく安心できました。母との約束を果たし、伝道に行き、帰還後は大学の学費全額分の奨学金が与えられました。

「わたしは行って、主が命じられたことを行います。主が命じられることには、それを成し遂げられるように主によって道が備えられており、それでなくては、主は何の命令も人の子らに下されないことを承知しているからです。」(1ニーファイ3章7節)

この経験を通して、預言者ニーファイの言葉の意味が、もう少し深く理解できるようになりました。わたしは宣教師として素晴らしい経験をし、素晴らしい人々と出会いました。主の命じられることを知り、それを達成するための信仰を忘れずに努力するときに、主はその道を示し、祝福してくださいます。

写真:伝道を終え、母が迎えに。伝道部会長夫妻と共に

 

この記事は福井敏敬によって書かれました。