真理を音楽で証する

大胆に真理を宣言しなさい。そうすれば、あなたの確信はさらに強まるでしょう。

「オニール先生、今日はあべこべの日だよ。」ある日、私が教えている4年生のバイオリンの生徒たちが、教室に入ってくるなり言いました。私は興味津々で彼らの方を見ました。一人の生徒がニコニコしながらこう説明してくれました。「先生は、自分が言いたいことと反対のことを言わなきゃいけないんだよ。例えば、もし僕が『バイオリンは大嫌い』と言ったら、本当はバイオリンが大好きって言う意味なんだ。分かった?」

私はにっこり笑って、「分かったわ、やりましょう。、、あ、違う違う、やらないわ。」

私がとてものみ込みが早いことがおかしかったのか、彼らは笑いました。「楽器を出さないで。そして、チューニングのために私にそれを渡しちゃダメよ。」彼らは正反対のことをしました。

「では、ニ長調の練習曲を2分音符で弾かないで。よーい、ストップ。」彼らは弾き始めました。しかも美しく。ですから、私はしかめっ面をして首を横に振りました。

一人の生徒が悲しげな顔をして、「タイム。」と言い、「オニール先生、何がいけないの?」と尋ねました。

「何もないわ。だって、今日はあべこべの日でしょ。だから、しかめっ面したのよ。ニコニコの反対でしょ?」

彼はニヤっと笑いました。「あべこべの日は、何か言うことに対してだけだよ。」

「あら、ごめんなさい。」私にはまだ分からないことが沢山ありました。

「じゃあ、続き。」

数分間そのゲームを続けると、自分が考えていることと正反対のことを言うことに、みんな飽きてきました。正直に言えば、あっという間につまらなくなったのです。翌週、そのクラスの子どもたちはまた同じことをやってみました。結局、あべこべの日はもうやらないと言うことを私が宣言しなければなりませんでした。それはあまりにも大きな妨げとなるものだったからです。それは私たちの集中力を削ぐものでした。最初に感じた楽しさや遊び的な要素は長続きしませんでした。彼らは予期していなかったことですが、実際には、反対のことを言うことは彼らの態度に良くない影響をもたらしたのです。

私たちは、まるであべこべの日が普通であるかのような時代に生きています。新聞を見たり、ニュースを読んだりするとき、まるでそれがあべこべの日であるかのように感じます。しかし、クラスの子どもたちがしたように立ち上がって「タイム」をかけたり、「今日はあべこべの日はなし」と宣言したりすることはできません。私たちはあべこべの考えに取り囲まれており、それは真理を消し去ろうとしています。

「我々の持つ真理と価値観は、いたるところで嘲られている」(英語版賛美歌256番 「末日に、シオンの若者として」)

私たちは娯楽、スポーツ、教育、宗教、政府など、あらゆる場所でその状況を見ています。私は屋根の上からこう叫びたいと思います。「あべこべの日はもうたくさんだ!」と。

イザヤの預言イザヤは、末日にこのようなことが起こることを預言しました。「わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい、暗きを光とし、光を暗しとし、苦きを甘しとし、甘きを苦しとする。」(イザヤ5:20)まさに今、私たちはこのような考え方に囚われているのです。私たちは、自国の性的マイノリティーを殺す中東のテロリストたちと折衝して救援する一方で、宗教の自由を支持しているという理由で、イリノイ州に対してボイコットをしています。私たちは、未成年の少女が親に内緒で中絶することを許しながら、子どもが学校で祈ることは許さないのです。実際は全くそうではないのに、男女の間の結婚を支持する人たちを、性的マイノリティーを嫌悪している人たちだと否応無しに決めつけます。このようなことの結果、最悪の場合、私たちは「あべこべの日を遵守する警察」の取り締まりを恐れて、声をあげられなくなってしまうのです。これはとんでもないことです。

真理を証することにより、あべこべの時代と戦う 毎月第一日曜日に、差別や恐怖を感じなくてもよい環境の中で、モルモン教の会員は自由に真理を宣言することができます。前日の夜に準備の祈りを捧げ、私たちの働きを主に捧げることから、それは始まります。それから2回の食事を断ち、その食事の代金に相当する額を貧しい人たちのための献金として納めます。そして翌日、私たちは聖餐をとります。これは神聖な部分です。その後、会員たちが立って真理を証する時間となります。

証をするとは、聖霊の力によって証言をすること、また個人的に得た知識や信条をもとに真理を厳粛に宣言することです。私たちは、真理について証をすると証はさらに強められると繰り返し教えられてきましたし、私は個人的にも何度もその力を感じてきました。なぜそうであるのか、今はよくわかります。真理は、この世にはびこるあべこべな考えに対抗するものだからなのです。

真理の証人として立ち上がるとき、私たちはまさに私たちが支持するその真理によって強められます。イエス・キリストの福音にある神性を宣言することを進んで行う私たち自身の姿勢によって強められるのです。主がお持ちである価値観を私たちが臆することなく支持する時、私たちは自分が誰の側に立っているのかを世界に宣言するのです。神性、高潔さ、良識、そして愛に根ざした主の価値観は、創世の時より定められていました。これらの価値観は、移り変わっていく世の流行とともに廃れるのではなく、時を超えるのです。

私たちが真理のために立ち上がるとき、私たちの言葉は、同じ考えを持ちながらも立ち上がって真理を語る強さをまだ持たない人々を強めるでしょう。

真理を分かち合うあなたはどちらの側に立っているでしょうか?世間の常識に迎合するためにあべこべの考えの側に立っているでしょうか?それともあなたは、基礎を成し、神聖かつ不朽の、人に生命をもたらすものであると救い主が定められたものに、自分の考え方を沿わせているでしょうか?立ち上がって証を述べることは、怖いことかもしれません。その怖れを克服するには信仰の行いが必要です。しかし、一旦言ってしまいさえすれば、あなたの言葉にある真理が、あなたやそれを聞く必要がある人たちを強めてくれるのです。

私は、神が生きておられ、イエスが救い主であることを証します。また聖書とモルモン書は神の言葉であり、救い主に対する証を強めてくれることを証します。エペソ人への手紙2章20節に書かれているように、キリストの教会は、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであることを知っています。真のキリストの教会が、ジョセフ・スミスという名の預言者によって末日に回復され、今日もトーマス・S・モンソン大管長と言う生ける預言者がおられることを証します。また、神聖な儀式が私たちの救いのために必要な儀式であることを証します。私は、パウロがコリント人への第一の手紙15章29節で述べたように、既にこの世を去った家族も同じ救いの儀式を受けることが出来るように、神が神殿を与えてくださったことを知っています。家族が神によって定められたものであることを証します。これらの真理を知りたいと真摯に願う人々が、研究し、深く考え、天父に祈るならば、聖霊が真理を証してくださることを知っています。まだまだ証できることは多くありますが、これらが私の証です。

真理を語ることは始まりです。真理を語ることに安心感を抱くようになると、自然と真理に生きることができるようになります。真理を知りながらも語ることを恐れている人々を強めることができるように、神の真理を語り、真理が私たちを強めてくださるという信仰を持とうではありませんか。

 

 

この記事はナネット・オニールにより書かれ、LDSブログに投稿されたものです。