第二次世界大戦中、わたしの祖父、桂男は国家増産増強の波に乗って、家族と共に開拓団として奄美大島から満州に移住しました。それは小学校1年生の秋のことでした。当時の日本は長男が親の財産を受け継ぐ家長制度でした。桂男の父は三男なので、奄美大島の小さな耕地に見切りをつけ、満州国の広大な土地を求め、大いなる希望と夢を持って移住しました。桂男はその後6年間満州で暮らしました。しかし1945年8月、終戦の知らせを受けた開拓民は、日本帰還を強いられます。桂男とその家族は幾度となく襲いかかる危機を乗り越え、途中家族がばらばらになりながらも、奇跡的に全員が日本に帰国することができました。この記事では、帰国するまでにあった出来事を抜粋して紹介していきます。
満州での暮らし
1939年夏、桂男は家族と共に満州国に渡りました。
桂男と家族は、虎林の近くに住んでいました。桂男の家族は農家だったため、灯油、油、みそ、醤油以外はすべて自分たちの畑や家畜から採ることができました。満州は極寒の地なので、真夏以外は気温が低く、肉類は屋根に放り投げておけば凍っていました。野菜などは、凍らないように土間に掘った2メートルほどの穴の中に保存していました。家畜の牛からは毎日60リットルの牛乳が搾れ、500羽いたニワトリからは毎日たくさんの卵が採れました。卵、牛乳、かぼちゃ、大豆、トウモロコシ、キビ、アワ、ジャガイモなど、採れた食料を近隣住民や軍に納入し、大きな収入を得ることができました。学校では3年生まで読み書き(習字)、つづり方(作文)、算術、理科、修身、音楽、図工、体育などを勉強しました。生徒は全員学校の寄宿舎で生活しました。
一日の始まりは、東京に最敬礼してから始まり、世界のどこにいても東京に向かって拝礼、最敬礼するように教育されました。桂男の両親はとても働き者で優しく、自分たちの食料以外はすべて満人、朝鮮人、周りの人に分け隔てなく与えていました。母は、日常の社会の状況を観察し、戦況が危ういと判断し、郵便局に貯蓄していたお金をすべて引き出し、ベルトなど目のつかないところに縫い込み、いつでも日本に帰れるように備えていました。桂男は、卒業後は広島の航空隊に5年間在学する予定でした。雑誌の表紙が格好良くて、あこがれて受験を決意しました。お国のために敵の軍艦に追突して死ぬんだとしか思っていませんでした。桂男はあろうことか受験に際し、受験票を忘れてしまいました。父は3日3晩かけて受験票を持ってきてくれました。結果は合格でした。
日本帰国への道のり
1945年8月6日、広島に原爆が落とされたことをソ連は隠していました。日ソ不可侵条約を結んでいたにも関わらず、北方領土と北満州に攻めてきました。
南下条令
8月9日、戦況は厳しくなり、敗戦の情報も少しずつ入ってきました。日本が降伏の意を固めた時(満州にいた日本人は知らず)、女性と子供を汽車で南下させるとの知らせを受けました。母と妹は、午後3時ごろの列車で南下しました。姉は軍に勤務していたため、別行動でした。桂男は、3時間目に生徒全員が集められた後、校長先生から「すぐに家に帰り、親の指示に従って行動しなさい」という指示を受けました。家に帰る途中、馬の世話などをしていると長い列車が見えました。日本へ帰るための最終列車でした。そのため、家にいた犬、馬、牛などを逃がしました。桂男は父と共に、布団や食べ物などを馬一頭立ての荷馬車に積み、ヤブロニというところへ向かって5日間移動しました。5日目に馬の体力が限界に達し、足を折って倒れこんでしまったため仕方なく徒歩に切り替えたのでした。
最初の危機
8月15日、ソ連軍に追われていたため、夜も歩きました。最終列車に乗った親戚の叔母さんは、列車がソ連軍に爆破されてしまい、それでも途中で無事に合流し、一緒に徒歩で日本を目指しました。叔母さんは子供が4人いましたが、残念なことに誰1人日本に帰国することはできませんでした。
ヤブロニという場所を過ぎたあたりで、もう一人の親戚の叔父さんと合流しました。昼間はソ連軍の空襲が激しさを増してきていたので身を隠し、夜間に歩きました。桂男は父とはぐれないようにベルトで身体をつないで歩いていましたが、桂男の疲れが限界に達し、睡魔に負け、そのベルトを解き道端に倒れ込んで熟睡してしまいました。父はベルトが繋がっていると思い込み、そのまま真っ暗闇の中を朦朧としながら日本を目指して歩き続けました。
夜が明け、ハッと気が付くと、周りには誰もいませんでした。方角もまったくわからなかったので、しばらくどうしようか考えました。冷静に考え、山の上に行けば何かがわかるのではと思い、頂上に登ってあたりを見渡すと、遠くにアリの行列のように人の列が見えました。その方角に進もうと決め、死に物狂いで走りました。しばらくしてその行列に追い付きました。彼らが朝鮮語を話していたので、朝鮮人の軍隊だとわかりました。黙って後をついて行きました。朝鮮人も祖国に帰るには、同じ道をたどらなければいけないことはわかっていました。30分ぐらい歩くと、いとこと遭遇しました。さらに1時間ほど歩いたところで、ソ連軍と出くわしてしまいました。その時、桂男といとこのほかに日本人が5〜6人いました。いとこが皆に小声で「絶対に目を合わせるな、目を合わせると撃たれるぞ」と言いました。何とも言えない緊張感で、その場が氷のように張り詰めました。いとこは桂男に向かって、「お前はまだ中学生(子供)だから、お前が話してこい」と言いました。
桂男は覚悟を決めてソ連兵の元へ近寄りました。ソ連兵は中国語で「君たちはどこへ行くのか」と聞きました。桂男は、その言葉を今でもはっきり覚えています。「ニーメンナーチューイ?(君たちはどこへ行くのか?)」桂男は中国語で答えました。「ムタンジャンチューイ」(牡丹江へ行く)ソ連兵の兵隊は「ムタンジャン チュイフリョー」(牡丹江へは行けませんよ)と言い、持っていた銃を地面に置き、両手を挙げて日本が降伏した旨をジェスチャーで教えてくれました。兵隊はジェスチャーと片言の中国語で「ソ連軍を歓迎しなさい」と言い、立ち去りました。射殺されずに済み、ほっと一息でした。日本人であるとばれていたら射殺されていたかもしれません。100メートルもしないうちに、川で日本軍の兵隊が水浴びをしていました。先ほどのソ連軍と遭遇していたら間違いなく銃撃戦になっていたことでしょう。自分たちもそれに巻き込まれていたかもしれません。
その後、何日ぐらい歩いたかはわかりません。途中目にした光景はどれも悲しく生々しいものばかりでした。集団で南下するため、子供が泣くとソ連軍に見つかってしまうかもしれません。親とはぐれた子供たちや小さい子供がいる親は、泣く子供を自ら川に流し半狂乱してしまう母親を見たりしました。満人の間では、日本人の子供を所有することはステータスが高いとされていたため、盗まれた子供がたくさんいました。人身売買を職業とする満人もおり、日本人の子供たちにおいしい食べ物を食べさせ、仲良くなってから満人に売る人もいました。途中に見つけた家はほとんどが空き家でした。そこから食料や衣類を調達しながら旅を続けました。そして南下する途中で、偶然別の叔父さんと再会することができました。一緒にいた日本人5〜6人で数日間行動を共にすることができました。
奇跡の再会
1週間ほどたったある日、満人部落のとうもろこしを貯蔵する蔵に泊まろうと、中を整理した時のことです。高床だったので上に上がろうとして壁にもたれていると、後ろから何かに押される感じがしました。振り向くと父が立っていました。奇跡的に父と再会したのです。その後、父と南下を続けました。ある日、ロシア軍の戦闘機が超低空飛行でやってきて、銃弾を浴びせてきました。トウモロコシがまだ成長していなかったため、隠れるところがなく、絶体絶命の状況でした。戦闘機が近づいてきたのでその場に身を伏せました。銃弾は自分の頭の数センチ上と耳の数センチ横に何発も発射されていました。父は銃弾が当たったと思い、息子の名前を何度も叫んでいました。ぱっと頭を上げると「生きてるなら早く返事せんか!」と言われました。
もう一つの奇跡
季節は冬になりました。極寒の地を歩いて南下することは、容易ではありませんでした。その時は10人ほどで移動中でした。ある日、道中で見つけた空き家で、少しでも暖をとれるように、ストーブの周りを囲うように丸く寝ていました。その空き家には毛布もありませんでした。まだ中学生だった桂男は、特別にストーブの横に寝かせてもらいました。ストーブに頭を向け、足は逆方向に向けていました。ところが、突然ストーブが爆発してしまいました。中に手りゅう弾が入っていたのです。この爆発で、たくさんの人が大けがを負いました。ストーブのそばにいた桂男はピクリともしません。そこにいた全員が、桂男は死んだと思いました。ところが、爆発した金属や薪などは運よく桂男の頭と体を避けて散らばっていました。奇跡的に桂男は無傷でした。
命懸けの人助け
ほとんどの地域では満人は日本人に絶対服従でしたが、ある地域では日本人が袋叩きにされ殺されている地域もありました。ある日、親戚の叔父さんが靴売り場で靴の値段を聞いたのに、買わなかったという理由で袋叩きにされていました。桂男はその中に割り込んでいき、叔父さんを助けました。そのようなことが何度もありました。道中で靴磨きをしたり家財を売ったりして稼いだお金は、袋叩きにあっている日本人を助けるために使ったり、食べ物を買うときに居合わせた、お金がなくて買えない人のためにも使いました。ある日、日本人を助けようとしましたが、多勢に無勢でどうしようもなくなり、逃げざるをえなくなってしまいました。ある飲食店に逃げ込むと、満人の店主が裏戸を開けて外へ逃がしてくれました。
まだまだ遠い日本への道のり
牡丹江からウラジオストク経由で日本に帰れると聞いたので、貨物列車に乗り込みました。たまたま乗った列車には、ソ連の将校などが寝ていました。居眠りしていると、ソ連兵は桂男が横になれるように席を譲り、自分たちは座っていました。牡丹江からハルビンに着きました。叔父さんは妻子がハルビンにいるという情報を聞いて、ハルビンで電車を降りて行動を別にしました。桂男と父は、母と妹がさらに南下したところにある新京にいるという情報が入ったので、ハルビンにしばらく滞在してから新京に向かいました。ある時、ソ連人が3人近づいてきて桂男が身につけていたベルトをよこせと言ってきました。それは、母がお金を縫いこんだ軍隊用のベルトでした。たまたま年上の義勇隊(空襲被害などの復旧員)が通りかかったので、「そっちの(義勇隊)ベルトは皮だから、自分のよりも高価だよ」と言うと、ソ連人たちは「そうだな」と言ってその義勇隊員のベルトを取り上げました。桂男のベルトの中には1,000円(現在の価値に換算すると約2〜30万ほど)が入っていました。
父、ソ連軍に連行される
新京について2〜3日後、父は捕虜としてソ連軍に連行されてしまいました。日本軍の兵隊を点呼した際に人数が足りなかったので、その穴埋めとして連れて行かれたのです。知り合いはすきをみて逃げたそうです。見つかったら、その場で銃殺されていたでしょう。父は逃げ出せず、連れていかれました。知り合いもいない中、桂男は再びこの地で頼れるのは自分ひとりになってしまいました。日本を目指すしかありませんでした。新京では、ロシア兵の靴磨きをして生活費を稼ぎました。
母との再会
ある日、避難民が何百人と道に座っていました。そこで母と妹が奉天にいるという情報を入手しました。すぐ列車に飛び乗り、奉天に向かいました。屋根も外枠もない列車でした。3日間飲まず食わずで、やっと奉天に到着しました。季節はもう冬に向かっていて、11月か12月になっていました。到着後、すぐに避難民の収容所を見つけました。収容所は薄暗く、避難民は栄養状態が悪いので、皆やせこけて幽霊のようでした。校庭に置かれた荷馬車には、死体が山積みになっていました。その収容所で、母がある地域にいるとの話を聞いたので1時間くらいかけて歩き、何回も同じ場所を行ったり来たりし、ようやく母と妹を見つけました。また奇跡の再会です。
待ち遠しかった日本への引き揚げ船
奉天に数か月滞在した後、貨物列車で南西にある葫芦島という町へ行き、建物もない広い原っぱで野宿をしました。その日は船に乗れず、次の日に日本への引き上げ船に乗り、福岡の博多港に到着しました。残念ながら、姉の情報は何もありませんでした。
姉は、引き揚げ船に乗っている時に「奄美大島が戦争で全滅してしまい、帰れない」といううわさを聞いたそうです。船に乗るためには、夫婦そろっているか家族が一緒であることが条件だったため、隣にいた男性と夫婦のふりをして乗りました。その男性はとても優しい人でした。姉はその男性と結婚し、共に青森に行きました。
父の捕虜生活
父は、極寒の地シベリアに3年ほど拘留されました。伐採が主な仕事で、山奥で作業を強いられ、過酷な労働のために仲間たちは次々と倒れていきました。半分ぐらいの仲間は亡くなりました。父は、どんなことがあっても生きて帰るとの思いで乗り切りました。奄美大島出身の捕虜も数名おり、歌を歌いながら励まし合いました。日本人捕虜に与えられる食べ物は、とても食べられるものではありませんでした。それでも食べなければ飢え死にすることが確実だったので、我慢して食べるしかありませんでした。
桂男は、1946年に奄美大島に帰ることができました。当時、一度だけ父から偽名で手紙がきましたが、詳細は書かれていませんでした。父は少し医学の知識を持っていて、ソ連の医学のレベルが低いと気づきました。そこでロシア兵に、自分は重い感染症にかかっていると告げ、日本に帰って来ることができました。
最後に
満州開拓団は27万人いました。途中で連れ去られたり売られたり、殺されたりした人の数は膨大でした。家族全員が生きて帰って来れたことは、奇跡中の奇跡だと祖父は話します。何度も死に目に遭ったものの、生きて帰ってこれたのは、神様が「あなたはまだ生きて使命を果たす必要がある」と言っていたからだと話しています。
わたしはこの話を詳しく聞いて、記録を残しておくべきだとずっと感じていました。実際に祖父の奇跡の生還の話を聞いて、なんとも言えない感謝の気持ちで満たされました。使命を果たすために、満州から祖父を生きて返してくれた神様にも感謝しています。先祖のことを知ることは、これから自分はどのように生きていきたいかを明確にし、これからの人生に大きく影響し、生きる力となることでしょう。このような話を知らなければ、先祖に感謝することも、子孫に受け継ぐこともできません。この話を聞くと、自分の抱える不満なんて小さいものだと感じます。わたしは、絶体絶命の状況を何度も乗り越えてきた祖父を尊敬しています。祖父は働き者で、病気やケガをしても、歩ける状態でない時さえも、毎日欠かさず畑に行って労働をするという、彼の生きる力がどこから来ているのかは、この話を聞かなければ一生理解することはなかったでしょう。わたしの持つ「思い立ったらやってみよう精神」、「冒険心」、「怖いもの知らず」なところは、祖父から受け継いだものであることも判明しました。彼の一生懸命に働く、そして生きる姿勢を、わたしの子供や孫に受け継ぎ、伝えていくことがわたしの使命だと感じています。
テクノロジーが発達した現在、祖父母と曽祖父母、そして高祖父母の時代の先祖たちについて調べることができます。こちらのサイトから家族歴史を調べたり家系図を作ることができます。ぜひ、活用してみてください。