救い主イエス・キリストの贖いの犠牲を通して、私たちは悔い改めて、主の戒めに新たに従順になることから来る喜びを感じることができます。悔い改めは日々のプロセスです。

Atonement-christ-light-lm-300x300悔い改めはイエス・キリストの福音の第1原則の一部です。救い主が地上におられた時、主は病人や、貧しい人々や、苦しんでいる人たち、また罪人に仕えられました。なぜ酒税人(集金をする人で、税を集める人に似ている)や罪人にかかわられるのかと尋ねられて、主は答えられました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。(中略)義人を招くためではなく、罪人を招くためである」[ここで、英文では「罪人を悔い改めるように招く」のように表現されている](マタイ9:10−13)イエス・キリストの使命の中核は、私たちのために模範となり、悔い改めを教え、それから贖いを行うことによって、私たちが罪から悔い改めることができるようにすることでした。キリストの贖いの目的は、神の子供たちのすべてが罪の結果を修正し、克服ことを助けることです。ダリン・H・オークス長老は、十二使徒定員会(大管長会と共に、末日聖徒イエス・キリスト教会の管理組織をなす、この教会は時々はからずもモルモン教会と呼ばれる)の一員ですが、次のように語っています。

イエス・キリストは(中略)世の光ですが、主の模範と主の教えが、天の父のもとに戻るための道を照らし出してくれるからです。イエスが生まれる前、ザカリアスはイスラエルの神である主がその民を訪れ「暗黒と死の陰とに住む者を照らし、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」(ルカ1:79)と予言しました。 [1]

ですから、イエス・キリストは道であり、真理であり、命です。主によって、主を通して、私たちは罪を悔い改めます。

悔い改めとは神の方にもう一度心を向けること

イエス・キリストはこの地上に生きたただひとりの完全な方です。それで主は、私たちのために天の父のところへ戻る道を照らすことができます。ニール・L・アンダーソン長老は十二使徒定員会の一員ですが、次のように語っています。

私たちが罪を犯すと、私たちは神から離れてしまいます。悔い改めるようにとの呼びかけは、懲らしめの声というより、愛のこもった勧めで、自分の方向を変え、もう一度向きを神の方へ向けるように招くのです。それは愛する御父とその独り子が、私たちに成長し、より高いレベルの生き方に到達するように、変わり、戒めを守ることに伴う幸せを感じるように招くことなのです。キリストの弟子として、私たちは悔い改めの祝福を喜び、赦される喜びを味わいます。それが私たちの生活の一部となり、私たちの考え方や感じ方を形作ります。 [2]

時々、私たちは深刻な罪から悔い改めることが必要です。また時には私たちはただ自分の意識をもう一度神の事柄に向ける必要があります。しかし悔い改めにはまた、もっと深い意味があります。ラッセル・M・ネルソン長老は十二使徒定員会の一員ですが、語っています。 

イエスが「悔い改めよ」と語ったとき、主の弟子たちはギリシャ語の動詞metanoeoという言葉でその戒めを記録しました。この力強い言葉には特別な意味が込められています。この言葉には、接頭辞metaは「変化」を意味します。接尾辞は4つのギリシャ語の用語と関連しています。「精神」を意味するnous、「知識」を意味するgnosis、「霊」を意味するpneuma、「息」を意味するpnoeです。 

ですから、イエスが「悔い改め」について語られたとき、主は私たちが変わるように命じられたのです。精神と、知識と、霊と、そして息においても変わることです。ある預言者は人の息におけるそのような変化は、1つ1つの呼吸を与えてくださっている主を感謝をもって認めることだと説明しています。 [3]

ですから私たちが自分の意志で神の方に気持ちを向けるとき、従順さと私たちの存在のあらゆる部分、さらには私たちの息までも含んでいるのです。それは天の父に対する全面的な服従です。そのことがまさに救い主が地上におられた時に行われたことでした。確かに、救い主はおっしゃいました。「それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。」(ヨハネ5:30

悔い改めの過程

悔い改めは1つの過程です。1つ1つのステップが大切です。アンダーソン長老は語ります。

自分が変わらなければならないところに気づいて、私たちは自分が生じさせている悲しみに対し申し訳ない気持ちをいだきます。これは心からの誠実な主に対する告白につながります。そして必要ならば他の人にも告白します。可能であれば、自分たちが誤って害したり、奪ったりしたものを元に戻します。 [2]

モルモンニズムにおける悔い改めのプロセスはたくさんのステップからなっています。最初に私たちは神の気持ちを害したことを認め、神との関係を修復したいと願わなければなりません。2番目に、私たちは比較的小さな罪については内密に神に告白し、深刻な罪については神にまた神の地上での代理人に告白しなければなりません。通常これは会衆の指導者で、ビショップです。3番目に、私たちは害を与えた人々にできる限りの償いをする必要があります。4番目に、罪を捨てなければなりません。そして、5番目に私たちはそれ以降神の戒めに従って生きるように努力しなければなりません。

毎週日曜日に、イエス・キリスト教会の会員は聖餐に与ります。割かれたパンはキリストの体と肉体的な苦しみ(とりわけ十字架での苦しみ)を表し、水は私たちの罪を贖うために流された血を表します。聖餐が祝福され、パスされるとき、私たちは救い主と私たちのための贖いについて振り返ります。私たちはまた自分自身の行動を振り返ります。そして自分を改善するための方法について振り返ります。それは振り返りと悔い改めのときです。アンダーソン長老はこの事を毎週する時、「悔い改めは私たちの日常生活の一部になります。」と語りました。さらに付け加えています。

時々、私たちの悔い改めの中で、もっとキリストのようになろうと日々努力する中で、私たちは自分が何度も同じ難題に苦労していることに気づきます。まるで木々に覆われた山を登るように、時には頂上に近くなるまで、あるいは高い尾根から振り返って見るまでは、私たちは進歩を見ることができません。がっかりしないでください。もし努力しているならば、悔い改めるように働いているならば、悔い改めのプロセスの中にいるのです。私たちが改善するにつれて、人生をもっとはっきり見るようになり、聖霊が自分の中でもっと強く働くのを感じます。 [2]

時々、変わる必要に気づくのが難しい

ときどき私たちが日常生活を送っているとき、自分のやり方を変える必要があるとわかるのは難しいのです。ラッセル・M・ネルソン長老は説明しています。

主が私たちに悔い改めるようにおっしゃいますが、たいていの人々はそれ程差し迫った必要を感じてはいません。自分は良くなろうとしている人の一人だと思っています。悪い意図はありません。それでも、主はすべての人は悔い改める必要があるとはっきりおっしゃっています。意図的に行う罪だけでなく、忘れていてしないことによる罪もあります。 [3]

とりわけ親として私たちは悔い改めなければなりません。私の父は自分が失敗した時には最初に謝る人でした。とりわけ、彼が子供の一人を罰してから、その子供が本当は無実であったとわかった時にそうしました。そのことを、私はいつも覚えています。そして私は自分の子供にも同じようにしようと思っています。

私の最近の経験ですが、母親として悔い改めて、もっとよくする必要を感じました。私たち家族は、異常な一週間を過ごしていました。部分的に私の責任でしたが、私はあれもこれも計画し過ぎていました。夫と私は土曜日の大部分結婚式に参加していて、土曜日の夜、披露宴を助ける約束をしていました。しかし、私の夫はある助けの必要な家族を訪れるように依頼されていました。私は一人で披露宴に行かなければならず、私の子供たちはお風呂に入る必要があり、私は待っている時間がありませんでした。私が外に出ようとしていたとき、突然、4人の空腹で、疲れて、汚くなった子供たちが、母親をとてつもなく必要としているのに目がとまりました。私は悔い改めなくてはならないと気づきました。私は自分の意識を自分の家族にもう一度向ける必要がありました。でもその日からではなく、その日のおそくなって忙しさの中でのことです。それで、子供たちをおいて出かけながら、子供たちの2人は泣いていましたが、私も泣きそうでした。私は家にいる必要があると気づいたのです。

しかし、私は自分で行って、花嫁と彼女の母親に、最後まで手伝えないことを告げました。それで、私は披露宴の会場に行って友だちに詫びました。私は花嫁と花婿に挨拶をして、芳名帳にサインして、(花嫁の勧めで)カップケーキをみんなの分もらって、去りました。私が家に戻ったとき、私の子供たちは私を見て驚きました。私は言いました。「あなたたちはおかあさんが家にいる必要があるでしょう。ただ家にいるだけでなくて、あなたたちに気持ちを向けているお母さんが。最近忙し過ぎてごめんなさい。もっといいおかあさんであるように約束します。」私はしなければならない他のことは脇において、自分の注意を子供たちに向けました。私たちは溜まっていた5つのバスケットいっぱいの洗濯物をたたみ始めました。しかし、その時友だちが芝刈り機を持って来て貸してくれました(家にはなかったからです)。夫がいなかったので、友だちが膝の高さまで伸びた芝を刈り始めました。子供たちを芝刈りに乗せてくれ、それから一番年上の子供に使い方を教えてくれました。子供たちが外にいる間に、私は彼らのために衣類をたたみ終えました。楽しい時間を過ごし、ゆったりした晩を過ごしました。私が注意の向ける方向を変えたときからその日の家の中の雰囲気が大きく変わったことに驚きました。

それが、悔い改めにどのような結果を生むかという例です。全身全霊をもって、天の父なる神に私たちの心を向ける時、とりわけ自分の意志、従順さ、そしてまさに息きも含めてですが、奇跡が起こります。奇跡は必ずしも大きな出来事ではないかもしれません。ときどき、それは子供たちがトランプリンで跳ねながら叫んで、「おかあさん!これ見て!」というのを見ていることです。私たちが自分の注意の向ける物を変え、神のことに心を向けるとき、これらの子供たちは平和と幸福の美しい贈り物です。

この記事はlmontagueによって書かれました。アイダホの山間にある小さな町に住んで、妻であり4人の美しい子供たちがいます。家族は一緒に、冬はスキーをし、夏はキャンプ、釣り、海岸に行くなどの活動をします。彼女は生まれたときから末日聖徒イエス・キリスト教会の会員で、人生で救い主と福音の祝福があることに感謝しています。