モルモンはモルモン書と聖書を聖典として使います。このシリーズはモルモン書の中でイエス・キリストに関係のあるわずかばかりの教えを探求しています。今日の話し合いのテーマはベニヤミン王が退位する時にその民に行った教えを追求することです。彼はイエス・キリストの贖いについて教えていました。そして彼らに自分の教えたことを信じるかと尋ねました。つまり、イエス・キリストを通してのみ救われるという点です。彼らは圧倒的に王に自分たちが信じていることを確信させました。そして主との聖約に入り、戒めを守ることを進んで行うと表現しました。当然な成り行きとして、ベニヤミン王はひどく喜びました。彼は述べています。
さて、あなたがたが交わした聖約のために、あなたがたはキリストの子と呼ばれ、キリストの息子および娘と呼ばれる。見よ、それは、今日キリストが霊的にあなたがたを子としてもうけられたからである。あなたがたは、キリストの御名を信じて心が改まったという。だから、あなたがたはキリストから生まれ、キリストの息子および娘となったのである。そしてあなたがたは、この称号の下で自由を得た。このほかにあなたがたに自由を得させる称号はない。救いをもたらす名はほかに与えられていない。だから、キリストの御名を受けて、神と聖約を交わしたあなたがたは皆、生涯の最後まで従順であってほしい。(モーサヤ5:7−8)
彼は群衆に、もし自分の心にそれを書き付けておくならば、キリストの名は罪によってふさわしくなくならない限りは消されることは決してないと約束しました。確かにキリストの名前を引き受けるということは真剣なことです。もしそうしておいて、御名を規則的に誤った使い方をするならば全く不敬なことです。人々はキリストをその教えに従う人々の行動で判断するでしょうから。主は、御自身でも、し主を愛するならば、その戒めを守るべきであるとおっしゃっています。その意味するところは、もし主の御名を尊ぶために世のプレッシャーという犠牲を喜んで受けようとしないならば、主を愛していないと暗に言っていることになります。そのような場合であれば、むしろ主の御名を受けない方が好ましいでしょう。だれも完全ではありません。しかし、私たちは完全を目指して努力するように期待されています。もし欠けている所があれば、悔い改めるのです。
ダリン・H・オークスは、モルモンの使徒ですが、自分に主の御名を引き受けるとはどういうことなのか説明しています。
主の御名によってバプテスマを受ける時に、キリストの御名を自分の身に受けます。そして主の教会に入る時に、また主に対する信仰を表明する時に、そして主の王国の業をなす時に、主の御名を引き受けます。(中略)ですから、イエス・キリストの御名を自分の身に進んで引き受けるということは、イエス・キリストの権威を自分の身に喜んで引き受けることを意味します。(中略)私たちが進んでイエス・キリストの御名を引き受けるということは、自分が主の右手に立つことを選ぶ人たちの仲間になれるようにあらゆることをするという決意を確認することです。そして、終わりの日に主の御名によって呼ばれることを選ぶこともその仲間のすることに含まれます。この聖なる意味で、私たちが喜んでイエス・キリストの御名を引き受けるという証は、日の栄えの王国に昇栄する候補者であることを宣言することです。昇栄とは永遠の命で、「神のあらゆる賜物の中で最も大いなるもの」(教義と聖約14:7)です。(大会報告、1985年4月、102−3、105ページ、あるいはエンサイン、1985年5月、80−81、83ページ)
それから、これは名誉のあるタイトルではありません。その意味は、私たちがそれまでしてきたようにすることで救いが得られるわけではないということです。私たちは天国に行くことを自分の力で勝ち得るわけではありません。私たちはイエス・キリストに対する愛を主が教えられた通りに戒めを守ることによって、そして主が求められることは何でも行うことで主が自分にとって非常に大切な存在であることを示すことによって、行いに表すのです。もし愛の精神でなされるとき、戒めに忠実であるということは、私たちの救いに欠かせられない部分です。それは私たちの心が本当に変わったことを示すことだからです。私たちの生活全体が変わっているからです。
もし私たちの生活が変わらないとすれば、クリスチャンになる意味はなんでしょうか。クリスチャンであることは、救い主の名前を身に受けることであり、イエス・キリストの贖いを受け入れることであり、これらのことは皆生活を変えることを意味し、現在と永遠に渡って続くことです。
この記事はテリー・リン・ビットナーによって書かれました。彼女はこれまでにLDS Blogに504の投稿をしています。