時代を1986年に戻しましょう。わたしはマイアメイド(14歳と15歳の若い女性たちのクラス)の一員でした。ネオンカラーのユニコーンのTシャツを着て、当時マレットと呼ばれた髪型で日曜日の若い女性クラスに出席していました。指導者は新しい信条を音読しています。その信条は暗記するだけでなく、これから一生の間、毎週欠かさず暗唱しなければならないのです!というのは大げさですが、14歳のわたしには自分が永遠にティーンエージャーのような気がしたのです。指導者は、読み上げた信条が新しい若い女性のテーマであることを告げました。それはわたしたちの自己発見を助け、わたしたちの信条を思い起こされてくれると言うのです。

毎週日曜日には教会に出席し、家族で家庭の夕べを開き、セミナリーや週1回の活動に参加していました。自分が何者であるかを思い起こさせてくれるものは、たくさんありました。それでも十分ではないのでしょうか?それに、教会がわたしのすべてではありません。わたしには学校や宿題、ダンス、友達、映画、新品の携帯型CDプレーヤーがありました。これ以上何が必要だと言うのでしょうか?若い女性のテーマを暗唱することによって、何が変わると言うのでしょうか?

天のお父様の娘

もしかしたら現実は少し違ったかもしれませんが(マレットの髪型は本当です)、時間を数十年ほど早送りして、この言葉がもたらした変化をつぶさにお伝えしましょう。

とてつもない変化を。

ティーンエージャーは大変な時期です。同世代からの圧力や学校のストレス。自分が何者であるかを、そして自分の信条を模索しています。家族や周りの人との関係を保ち、将来を計画する……ティーンエージャーの皆さん。あなたたちは素晴らしく、そして困難な人生のひとコマに直面しているのです!

わたしは表面的には恵まれた十代を過ごしました。父はビショップで、良い家族に恵まれました。優良な学校に通い、健康に恵まれていました。問題は、内面にありました。わたしは考えすぎるところがあって、自分に対して以下のような良くない考えばかりを抱いていたのです。わたしはバカに違いない。愛される価値があるのかが分からない。赦されるのにふさわしいのだろうか?存在感が薄いのかな?そもそも神様はわたしのことを見ていらっしゃるのかな?などです。自分を信じられず、その影響が生活のあらゆる面にも及んでいました。

『わたしたちは天父の娘です。天父はわたしたちを愛し、わたしたちも天父を愛しています。』わたしは、毎週この言葉を復唱しました。そして自分が天父の娘であることを、毎週思い起こすことができました。この知識が、困難に直面する十代のわたしにとって唯一の支えでした。わたしは神の娘です。神はどんなときもわたしを愛してくださいます。

それは十代という海原うなばらからわたしを救い出してくる救命具であり、とても意義のあることでした。

主を愛することを学ぶ

わたしがとても大切にしていた言葉がもう一つあります。わたしは、主がわたしを愛しておられることと、主がどのようにその愛を示されるかについて学んでいました。そして、わたし自身も主を愛することを学び、それを主に示す方法も学んでいました。最初、それはとても難しいことでした。わたしたちは天父に対し、イエス様を通して祈るので、直接イエス様に祈ることをしないからです。では、どのようにイエス様とお話し、愛を伝える事ができるのでしょうか?すると聖典を通して、救い主ご自身からその答えをいただきました。

『もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである』(ヨハネ14:15)

わたしはこの聖句が大好きです。この聖句は愛について、つまり愛する方法や誰を愛すべきかについて教えています。これは、選択についての聖句です。日曜礼拝や週日の活動だけでなく、わたしたちの日々の決断について書かれています。また何をするかだけでなくて、それに対しての動機も大切です。

わたしたちのすべての行動の中心はイエス・キリストです。わたしたちの行動の動機はキリストなのです。

そしてここに驚くべき事実があります。動機はキリストなのだけど、キリストの理由はわたしたちなのです。

主はすべてのことを、わたしたちのためになさいました。すべてです。主はわたしたちを愛するがゆえに、わたしたちのためにご自身を捧げられました。主は、わたしたちがどのように主に愛を示すべきかを分かりやすように具体的に教えてくださいました。つまり、「主の戒めを守る」ことです。

なぜそれほどまでに戒めが重要なのか、不思議に思うかもしれません。愛を示すためには、本当に戒めを守らないといけないのでしょうか?恐らくあなたは自分が何をしようと、主はあなたが主を愛していることを分かってくださると考えているかもしれません。または、戒めはばかげた、自分を押さえつけるものなので、それ以外の方法で主に愛を示す方法を探しているのかもしれません。例えば、祈る時に自分が救い主を愛していることを、天のお父様に伝えたり、誰かに奉仕することで、主に愛を示したりすることかもしれません。また、聖典から主について学ぶことかもしれません。

しかし、ここが肝心なところです。これらのことすべては、すでに戒めなのです。 わたしたちは祈り(モーサヤ26:39)、奉仕し(モーサヤ2:17)、学ぶ(マタイ11:29)ように戒められています。きっとあなたは、知らず知らずのうちにちゃんと戒めを守っていると思います。

抑制ではなく、助け

どのような戒めであっても、それは神がわたしたちを助けるためにお与えになったものです。ある人は、戒めは乾いた地面に置かれた錨だと考えるかもしれません。それは、わたしたちを引き止める重くて必要のないおもしのようです。ここで、わたしが伝道中に聞いた大好きなたとえをご紹介します。戒めは凧(たこ)のようなものです。 もう少し具体的に言うと、戒めは凧を揚げる人と凧をつなぐ糸のようなものです。ある人は、凧糸は凧の動きに制限を加え、地面に引き寄せるものだと考える人もいます。しかし、凧を揚げている人が糸から手を離したらどうなるか考えてみてください。その凧は少なからず上昇するものの、結局は地面に落ちてしまうのです。

凧が飛ぶためには凧糸が必要なのです。糸があるから空に浮かぶことができるのです。抵抗や力、引力、これらすべてがそろった時に、凧は揚がり、回転し、上昇することができるのです。

戒めがわたしたちを抑え込むルールのように思うかもしれませんが、本当は、戒め(凧糸)のおかげで地面に打ち付けられずに済んでいるのです。 戒めは、わたしたちが人生で上昇できるように後押ししてくれる、天から与えられた力です。 戒めは、わたしたちを高め、守り、生まれてきた目的を果たせるように助けてくれます。

戒めを守ることは重荷ではなく、目標なのです。エズラ・タフト・ベンソン大管長はこのように述べています。

「従順が心をいらだたせるものでなく、自ら求めるものとなるとき、神はそのときに力を授けてくださるであろう」(エズラ・タフト・ベンソン大管長の言葉をドナルド・L・ステーリーが引用したもの『従順 ー人生の大きなチャレンジ』リアホナ1998年7月号p.89)。

なんと素晴らしい言葉なのでしょう!あなたは神から力を受けているところを想像できますか?自ら求めるなら、神の力を受けることができるのです!

あなたの愛する人から「誕生日に何が欲しい?」「クリスマスに何が欲しい?」と聞かれたことは何回ありますか?なぜ彼らはそのように聞いてくれるのでしょうか?それは、愛する人にはその人が望むものを与えたいと願うからです。彼らを幸せにしたいのです。

ある日、学校から帰宅した時、またはショッピングモールにいる時に、イエス様に出会ったらどうなるでしょうか。きっと、慌てふためくことでしょう。もしその後に、わたしが主に「あなたを愛しています。あなたを喜ばせるために何を差し上げましょうか」と言ったらどうなるでしょうか?恐らく主は、この聖句と全く同じことをおっしゃるでしょう。

「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである」

わたしたちが戒めを守るとき、それが神を喜ばせるだけでなく、救い主を笑顔にさせているのです。わたしたちは、まさしく主が望まれている方法で、主に愛を示しているのです。

この記事はもともとMichelle Wilson によって書かれ、ldsliving.comに”Youth Theme Insight: The Words That Helped Me Understand My Identity”の題名で投稿されました。