誰かがあなたを傷つけた時、相手の人を赦すことができますか?キリストはわたしたちに互いに赦し合うように教えられました。でも、そう簡単に赦すことなんてできない!!と感じるかもしれません。人は自然に上手くいっていないことや問題にばかり目を向けてしまう傾向があり、幸せを遠ざけてしまうことがよくあります。

 

例えばホテルに行ったのに、目の前の景色が他の建物の屋上や屋根しか見えなかったらがっかりしますよね。でも実は下を見ると歴史的でユニークな建物があったり、上を見れば美しい空が見えることに気が付くといったこともあるでしょう。また、高い山にせっかく登ったのに、手元にあるゴミにわざわざ注意を払うのではなく、遠くに広がる壮大な景色を見るように少し視点を変えることで、赦すということができるようになるかもしれません。

 

そして、誰かを赦すことであなたが背負っている重荷を軽くして神の恵を感じ、あなたは幸せになることができるんです。キリストはわたしたちの重荷を負うことを申し出て、すでに全人類のために犠牲を払ってくれました。なので、わたしたちが無理をして重荷を自分で背負い続ける必要は無く、キリストに委ねることが可能です。

 

赦しとは何か?

Lds.orgの福音のテーマのページによると、赦しとは「罪や過ちを犯した人を非難せずに許すことです」とあります。これは、誰かに対し怒り、恨み、または復讐心をそれ以上持たないことも含まれます。キリストの模範の赦しは、自分を傷つけた人であってもすべての人に慈愛を持つということです。しかし、赦しはそんなに簡単なことではなりません。時間が掛かることがほとんどです。しかし、あなたは赦すことができます。

 

なぜ赦さなければいけないのか?その4つの理由

1)それは戒めだから
誰かを赦さなければいけない理由は、戒めだからです。神の忠実な子供たちとして、お互いを赦し合います。パウロはコロサイ人にこう言いました。

「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ人3:12-13)

 

2)自分が赦されるためである

人を赦すことで、自分も赦されます。マタイ6:14-15には、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」と書かれています。

3)ほかの罪を犯さないよう守られるため

もし赦さなかったら、心の中にこんな思いが出てくるでしょう。

「自分は犠牲者だ!!」
「相手は全然人の気持ちを分かってない。」
「なんでこんな悲しい経験をしなくちゃいけないんだ。」
「あの人は楽をしていい思いをしてるのに、自分はどんだけ頑張っても結果がでない」
「そんなことで悩んでいるなんて弱いなぁ」

こんな思いはあなたの中に、高慢、うぬぼれ、強欲、求めすぎる権利を生み出します。この気持ちがいつまでもあることで、相手を「裁く」というほかの罪を犯してしまうという危険が高くなります。モロナイ書7章18節にはこうあります。「あなたがた​が​裁く​その​​裁き​で、あなたがた​も​裁かれる​から​で​ある。」
一人一人顔や個性が違うように、経験することやそれに対して感じる気持ちは違います。辛いこと、大変なことを誰かと比較したり、ほかの人を裁くことは、あなたを赦しから遠ざけてしまいます。

4)わたしたちが癒されるのを助けるため

自分を傷つけた人を赦すことで、心に感じる苦しさから解放されます。H・バーク・ピーターソン長老は、赦さないことを毒に例えました。「毒のような復讐心や、執念深い心、そして人を赦そうとしない態度は、もし取り除かないでそのままにしておくならば、そのような思いを抱いていた人の魂を滅ぼすことでしょう。」(H・バーク・ピーターソン長老、「赦せない心の害悪を取り除く」、1983年10月大会報告)

 

誰を赦す必要があるのか?

教義と聖約64:10には、「主なるわたしは、わたしが赦そうと思う者を赦す。しかし、あなたがたは、すべての人(男性も女性も)を赦すことが求められる」とあります。

1)すべての人を赦す
・相手が親切でなかったり、イライラしてたら…
○「あんな態度なのは何か嫌なことでもあったのかな」と思い自分の気を楽にする
○「あんな乱暴になって、あの人の一日(人生)はなんて大変だ」と同情する

完璧な人はいません。人間誰にでも欠点があります。あなたにもあります。誰かがそしその欠点を大目に見てくれているかもしれませんし、自分も知らない間に誰かを傷つけているかもしれません。だから相手の間違いをいつまでも責めないようにしましょう。イエス・キリストはこのように言われました。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。」

またスペンサー・W・キンボール大管長はこう言いました。

死すべき肉体が存在する限り、わたしたちは不完全な人々と共に生活し働きます。そして傷つきやすい感情に対し、誤解、悪意、損傷が起こるでしょう。最高の動機はしばしば誤解されます。魂の大いなる多くの者が、考え方の歪みを取り除き、高慢を飲み込み、個人的に侮辱を受けたことを赦すのを見ることは喜びとなります。(スペンサーWキンボール大管長、1955年4月大会報告、98英語版)

・どんな人でも神様の愛する子供である、と意識する
○一人一人が神から愛され、生活の中で何かしら痛みを経験している
○誰もが人から尊敬されるべき人々である
○必要であればすぐに赦されるべき人々

これらのことを思い起こすことは、あなたの相手への気持ちを和らげる助けになるでしょう。

2)自分を傷つけた人を赦す

・自分にされた悪事をいつもすべて忘れるということではない
赦すとは、傷つけられたこと、起きてしまったことに寛大になるというわけではありません。相手の悪い行いをなかったことにしたり、法律による報いを逃れさせるのも違います。赦すということは、自分の身に起こった嫌な出来事を忘れたり、自分や大切な人を傷つけた人を全て受け入れるということでもありません。

○大切なのは赦そうと努力すること
スペンサー・W・キンボール大管長はこう教えています。

「(神の)右にいるためには、私たちは赦さなければなりません。わたしたちの敵対者が悔い改めるか否かに関係なく、また、彼の変化がどれくらい誠実であるか、彼が私たちに赦しを請うか否かに関係なく赦す必要があります。わたしたちは、『あなたがたは心の中で言うべきである。すなわち、神がわたしとあなたの間を裁き、あなたの行いに応じてあなたに報いてくださるようにと』(教義と聖約64:11)と言われた主の模範と教えに従わなければなりません。(スペンサーWキンボール大管長、「赦しの奇跡」、1969年1月、283英語版)

○赦すこともイエスの模範に従うことができる
イエスはこう言われました。

「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。あなたを嫌う者のためよい行いをしなさい。悪意を持ってあなたを使う者や迫害する者のために祈りなさい。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためです。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせて下さるからである。」(マタイ5:44)

3)自分自身のことも赦す

赦す相手はいつも自分以外というわけではありません。自分を赦さなければいけないこともあります。罪悪感はこれ以上罪を犯さないようにあなたを守ります。罪悪感のせいでいつまでも苦しむ必要はありません。必要な悔い改めをし、必要な報いを受けたなら、自分を赦してあげてください。謙遜に神に頼り、神が自分のことを愛し信頼していると信じます。

もし罪を悔い改めるために必要なことをすべて行っても自分自身を赦せず、大小に関わらず罪悪感を持っている人がいるなら、次のことをよく覚えていて下さい。
神はあなたのことを無条件で愛してくださり、すすんで赦してくださろうとしています。ですから、あなたもあなた自身を無条件で愛し赦してあげてください。

4)神を赦す
神を赦すなんておかしい話ですよね。でも、それが必要になる時があります。自分が受ける試練のせいで、神に怒ったり腹立たしく思ったりすることがあるかもしれません。しかし、物事がうまくいかないからといって、神を責めたり恨んだりするのは違います。経験する試練のほとんどは自分やほかの人の選びの結果だからです。赦すことは戒めで、すべての人を赦す必要があるなら、神に怒ることは違うのです。物事が思い通りに行かない時、必要なのは、謙遜になって恨みや怒りを取り除き、神に信仰を持って頼る必要があります。

「わたしに学び、わたしの言葉を聴きなさい。わたしの御霊の柔和な道を歩みなさい。そうそれば、あなたはわたしによって平安を得るであろう。」(教義と聖約19:23)

赦して幸せになる

痛みや苦しみを与えた人を簡単に赦すことはできないことでしょう。しかし、その痛みや苦しみを手放そうと努力することで相手を赦すことができます。完全に手放すには時間がかかるかもしれません。しかし、相手を裁かず、神に頼り祈り求めることで必ず心の重荷から解放されます。相手があなたに対してしたことを悔い改めるのは、本人と神との間で行われるべきことです。裁きも必要なら法的機関が行います。そして神も必要な報いを与えるでしょう。相手を赦せないことで、いつまでも心の中に嫌な思いを留めておく必要はありません。その思いを手放して、あなたはもっと幸せになっていいんです。

ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこのように話しました。「神の助けを受けて、もう少し優しくなり、もっと寛大になり、もっと赦し、もっと喜んで2マイル歩き、罪を犯したけれどもすでに悔い改めの実を結んでいる人に手を伸ばして引き上げ、昔の恨みを忘れ、二度と恨みを増幅させることがありませんように。」

痛みや苦しみを手放すことができたとき、ずっと持ち続けていた重い荷物を下ろした後のように、心は解放感に満たされるでしょう。辛い思いがなくなった分、幸せをたくさん感じることができるようになります。辛い経験からちょっと視点を変えて自分の幸せを見つめたり、苦しい思いを捨てられるように神に頼ることで、必ず赦すことができます。何より、神はそれを望んでおられるのです。

この記事は、ブリガムヤング大学アイダホ校のCommunity Relations & University EventsのDirectorであるBrett Sampsonが同校のディボーショナルで話された話をもとに書かれました。https://www.byui.edu/devotionals/brett-sampson