わたしはキリストを信じています。いわゆる宗教二世です。最近、宗教が批判の対象になっているニュースやSNS投稿を見かけます。それを見ると複雑な気持ちになります。
生まれて当たり前のように「教え」がありましたが、人生の中で何度かこのように考えたことがあります。
どうしてうちは教会に行くのだろう。
わたしは教会に行かない人生を送れるのか。
実際に宗教の家庭に生まれることは、不幸なことなのでしょうか。親が信仰しているものを子供は受け継がなくてはいけないのでしょうか。それとも自分で選んでもいいのでしょうか。

憂鬱だった日曜日
わたしの両親は、それぞれが独身の頃に末日聖徒イエス・キリスト教会に改宗しました。2人はそれぞれの生活の中で宣教師に出会い、自分で選んで教会員になりました。
でもわたしはどうでしょう。
親が教会員だから
この理由でわたしは毎週日曜日に教会に行っていました。
小さい頃は仲良しの友達がいたり、子供のクラスの先生が優しかったり、教会に行くことが特別なお出かけに感じたり、教会の活動で餅つきやクリスマス会などのイベントがあり楽しかったです。
時々家に来る宣教師も好きでした。まるでお兄さんやお姉さんのように遊んでもらったりしました。たどたどしい日本語で、一生懸命キリストについて話す姿にも、幼心ながら引きつけられていました。
しかし大きくなるにつれ、いつも遊ぶ学校の友達は、誰も教会に行っていないことに気付きました。
みんなが見ている日曜日のテレビ番組も見れず、話についていけないこともありました。
そしていつの間にか、教会に行っていることを友達に知られたくない、と思うようになりました。
そして、小さい頃に教会の子供のクラスで一緒だった子達が教会に来なくなり、大人しくしていなくてはいけない時間が、つまらなくなりました。
そして親が行っている理由で、わたしも教会に行かなくてはいけないことが、イヤになりました。
わたしの家庭では、教会はもちろん学校のことにも励むようにという教育方針だったので、中学校に入り部活動を優先して、日曜日の教会に行かないことは認められていました。
ですから、中学校に入学してからわたしは教会に行かず、毎週日曜日は部活動に逃げました。この時のわたしの心境は両親も分かっていたと思います。
教会の教えを実践し始めた10代後半
困った時の神頼みとは良く言ったもので、高校受験の時にわたしは人生で初めて心から祈るという経験をします。
志望校の決定が、どれだけ考えても分からなかったからです。そんな時に、よくわたしを気に掛けてくれていた1人の教会員の言葉を思い出しました。
「とりあえず祈ってみたら?」
「祈りは気休めじゃないか、教会の教えが本当に意味があるのか」とよく考えていましたが、志望校決定の期限が迫っていたので、藁にもすがる思いで心から祈りました。
この経験では、劇的なことは起こりませんでした。
「この高校へ行きなさい!」という声が聞こえることや、はっきりと確信を得ることもありませんでした。
しかし祈った後に良い気持ちを感じ、迷っていた2つの高校の私にとっての長所と短所を書き出し、よく考え志望校を決めることができました。
高校に入って、部活動で更に忙しくなりました。しかし、気付いたらわたしは自分で祈るようになっていました。
スランプの時や試合前、そしてうまくいっている時の感謝の祈りをするようになっていました。
親は「祈りなさい」と言ったことはありません。ただ、志望校を決めた時の経験から、特に意識はしなくても、たびたび自分から祈り、聖典の教えを実践するようになっていました。

自分で信仰を選んだ
部活を引退して、教会に行かない理由がなくなったので、また教会に通うようになりました。この時はまた、親が行っているから付いていくという感覚でした。家でダラダラするくないなら教会に行くように親も言いました。
しかし、10代の女子のクラスの指導者たちが、20代の女性の教会員ばかりだったので、18歳だったわたしは毎週日曜日に行き、あのお姉さん達と一緒にいる時間がとても楽しく感じるようになっていました。
わたしも成長していたからか、中学生の頃よりも視野が広くなったのだと思います。教会員の友達ができ、彼らと遊ぶことも教会員ではない友達と遊ぶことも、どちらも心から楽しめるようになっていました。
自分は家族と日曜日に教会に行っていることも、堂々と言えるようになっていました。
そして高校卒業後の進路から、わたしは自分で教会に関係することを選ぶようになっていました。いろんな状況で自分で考える機会が何度もあり、その積み重ねで教会の「教え」が良いものだと知ったからです。
- 教会が運営するブリガム・ヤング大学ハワイ校へ入学
- 大学を休学し、教会の専任宣教師として1年半九州地区で奉仕・宣教活動
- 伝道後、大学へ戻り学業に励みながら、同じ信仰を持つ夫と出会い神殿結婚
こんな選択をする中でも、教会員ではない高校からの友達は、今も変わらず友達でいてくれています。教会の活動に来てくれたり、わたしが伝道に行く時もちゃんと何をしているか、わたしが何を信じているのかを聞いてくれました。
その友達の存在は、わたしが教会員であることを恥ずかしく思わず、自分で選ぶことに自信を持たせてくれたと今は思います。
親の信仰によって教会に行き、生活の中にその教えが存在していたのが、「自分で選んだわたしの信仰」に変わって行きました。
日本社会の宗教観と自分の違和感
信仰プラスの活動は世界中で行われているので、ほかの国の文化を知る機会があります。話を聞いていると、海外の多くの国では宗教を信じることは特に大きな問題ではないと感じました。
しかし、日本では宗教=悪という空気を感じます。これは1995年の地下鉄サリン事件がきっかけの一つになっている、という記事を読んだことがあります。
また、ここ数年のニュースなどでは、宗教二世=被害者という定義付けが行われているのも感じています。
もちろん、宗教によって苦しい経験をしている人がいることは事実です。そして、これは真剣に個人や社会が向き合うべき問題だと思います。
ただ、宗教二世、三世の人生はこれだけではないのです。
宗教の自由とは何か
日本は憲法によって宗教の自由があります。国によって保障されている基本的人権です。
わたしにとって宗教の自由とは、信仰を持たない自由だけでなく、信仰を持つ自由でもあります。
そしてそれは、親の信仰をそのまま受け入れることではなく、自分で考えて自分で決めることでもあると思います。
もちろん、子供のころから信じていることを、何の疑いもなく信じていくこともあると思います。これは宗教に限らず、各家庭の方針でも同じようなことが見られると思います。
教育に対する方針、金銭感覚、休日の過ごし方、好きなアーティスト、家族のあり方、そして支持する政党もそうでしょう。
小さい頃は自分が育った環境がすべてだったとしても、学校という社会や、違った家庭で育った友達との時間を過ごすことによって、子供が何かに気付き、自分はやっぱり自分の家庭の方法がいい、と思うこともあるでしょう。
なので、純粋に何か宗教を信じている人が、必ずしも洗脳されていたり盲目であるとはないと思います。
もちろん、その宗教、団体、組織が法律に反していたり、人を傷付ける方針だったりするなら、それは話は別です。
ただ、信仰があることで保たれている生活のバランスもあります。良い教えを実行しているなら、社会が良くなる要素の1つとなることができると思います。

子育てと信仰
現在わたしは、自分が信じている教えを生活の中心に置いて、子育てをしています。子供たちにはできる限り、さまざまな選択肢を与えるように努力しています。
3人の子育てをする上で、わたしは教会の教えにとても助けられています。子供たちもそれを当然と思っています。だからといって、わたしは自分の子供に信仰を押し付けようとは思っていません。
ただ、人生の中で自分が本当に価値を見いだしたものを、親として伝えたいと思っています。
不思議なことに、あの子たちは子供の頃のわたしとは違い、自分で教会に行きます。今は楽しいといいます。時々イヤイヤ来ていたりもしましたが、でもやっぱり教会に行くことを最後には選んでいます。
最終的に、子供の人生は彼らの人生なので、今後何を選ぶかは彼ら次第です。しかし、どんな道を選んでも、わたしの大切な子供なのは変わりません。
終わりに
宗教二世という言葉の裏には、その言葉に当てはまる人の分だけ人生があります。わたしの人生はその一つにすぎません。なので、これが正解だとも思っていません。しかし、少なくともわたしは、自分の信仰を自分の意思で選びました。
この記事を通して、宗教二世や三世が全員不幸だと思うのではなく、社会のルールを守りながらも生きる同じ人間のストーリーと考えてみてください。宗教=悪ではなく、個人が心身のバランスを保ちながら持つ1つの信念や信条と考えてみる機会となることを願います。