末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン書があるので誤ってモルモン教と呼ばれる)は家族が神から聖任されたもので、教会、社会、神の王国の基本的な単位であると主張しています。

1995年に公にされた「家族:世界への宣言」で、イエス・キリスト教会の大管長会と十二使徒定員会は、すべての人々は天の父や母の文字通りの子供たちであると宣言しました。

すべての人は,男性も女性も,神の形に創造されています。人は皆,天の両親から愛されている霊の息子,娘です。したがって,人は皆,神の属性と神聖な行く末とを受け継いでいます。そして性別は,人の前世,現世および永遠の状態と目的にとって必須の特性なのです。前世で,霊の息子,娘たちは神を知っていて,永遠の御父として神を礼拝し,神の計画を受け入れました。その計画によって,神の子供たちは肉体を得ることができ,また,完成に向かって進歩して,最終的に永遠の命を受け継ぐ者としての神聖な行く末を実現するために,地上での経験を得られるようになったのです。神の幸福の計画は,家族関係が墓を超えて続くことを可能にしました。聖なる神殿において得られる神聖な儀式と聖約は,わたしたちが個人として神のみもとに帰り,また家族として永遠に一つとなることを可能にするのです。[1]

聖典の中で天の母に言及しているところ

聖典の中で直接的に語られてはいませんが、末日聖徒にとっては子供たちが父親と結びつくためには、母親が必要です。十二使徒であったジョセフ・フィールディング・スミスは次のように説明しています。

聖書にも、モルモン書にも、教義と聖約にも直接に天の母に言及しているところがありませんが、そのことを反証するような十分の証拠はありません。(中略)女性の霊が「天の母」の姿に似せて創造されたと考えるのが自然ではないでしょうか。(福音の質疑と応答、3巻、142−144ページ)

モルモニズムの百科事典は、「エロヒム」という言葉について議論しています。

エロヒムは、神につけられた名前/タイトルです。これはカナーン語のエルまたはヘブル語のエロアの複数形です。この言葉は、ヘブル語の様々な組み合わせで使われ、最高位の神を表しています。絶対的な神の荘厳な称号です。創世記の1:27には次のようにあります。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに人を創造し、男と女とに創造された。」この文章を分析すると、神は複数ではないかという推測ができます。 [2]

古代の預言者はエロヒムが人類の創造主であると認めていました。

「彼らふたりは、ひれ伏して言った、『神よ、すべての肉なる者の命の神よ、このひとりの人が、罪を犯したからといって、あなたは全会衆に対して怒られるのですか。」(民数記16:22)

「わたしたちは言う、『あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。』」(詩篇82:6)

「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」(ローマ8:16−17)

「その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。」(ヘブル12:9)

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、私たちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、私たちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。」(1ヨハネ3:2)

神の律法は昨日も、今日も、そして永遠に同じですから、神の子供たちに対する永遠の命の約束は、神が経験されている命について語っているのです。

「さらにまた、まことに、わたしはあなたがたに言う。もしある男がわたしの律法であるわたしの言葉によって、また新しくかつ永遠の聖約によって妻をめとり、そしてそれが、わたしからこのちからとこの神権の鍵とを与えられた油注がれた者によって、約束の聖なる御霊により彼らに結び固められ、また彼らに『あなたがたは第一の復活に出てくるであろう。もし第一の復活の後ならば、次の復活に出てくるであろう。そして、王位、王国、公国、および力、主権、すべての高い所と深い所を受け継ぐであろう』と言われるならば、また殺人を犯して罪のない者の血を流してはならないと子羊の命の書に記されているので、あなたがたがわたしの聖約の中にとどまり、殺人を犯して罪のない者の血を流すことがなければ、わたしの僕が彼らに授けたすべての事柄は何であろうと、この世においても永遠にわたっても、彼らに行われ、彼らがこの世の外に去るときにも完全に効力があらわれるであろう。そして、彼らはそこに置かれる天使たちと神々のそばを通り過ぎ、彼らの頭に結び固められたように、すべての事柄について昇栄と栄光をうけるであろう。その栄光とは、とこしえにいつまでも子孫が満ちて続くことである。」(教義と聖約132:19)

最近の教会の指導者が天の母に言及したこと

最近の指導者は天の母について彼らの信条を分かち合ってくれています。

ゴードン・B・ヒンクレー大管長:

論理的に考えれば、もし天に父がいらっしゃれば母がいらっしゃることは確かです。(聖徒の道 1992年 1月号 p.112)

ハワード・W・ハンター大管長:

ここで 、オル ソン・F・ホイットニーの言葉を見てみたいと思います。「私たちの味わう苦 痛,、経験する試練はどれひとつとして無駄なものはない。それによって私たちは訓練され、忍耐力や信仰、不屈の精神、謙遜さなどの特質が養われるのである。私たちの味わう苦痛、忍耐する事柄はどれも、時に辛抱強く耐え忍ぶときには、私たちの人格を築き、心を清め、心を開き、私たちをより慈悲深い愛に富んだ者とし、なお一層神の子と呼ばれるにふさわしい者としてくれる。……悲しみや苦痛、試練、銀難によって、私たちはこの世に来た目的である訓練を受け、それによって一層天の父、母のようになれるのである。」(聖徒の道 1988年 1月号 p.62-63)

スペンサー・W・キンボール大管長:

神はあなたのお父さんです。神はあなたのことを愛しておられます。神と天のお母さんはあなたのことを限りなく大切に思っておられます。あなたはユニークです。永遠の英知からなる存在で、永遠の生命を得られる可能性をもっています。自分の価値について疑わないようにしましょう。福音の計画の意図していることの全体は、あなたがた一人一人に自分の最高の可能性に至るように機会を与えることです。それは永遠に進歩し、神になるという可能性です。

ブルース・R・マッコンキー長老:

天に母がおられるというこの教義については、教会の大管長会(ジョセフ・F・スミス、ジョン・R・ウインダー、アンソン・H・ランド)によって率直に確認されました。前世や人の起源について語っていたとき、彼らは「霊としての人は天の両親から生まれ、御父の永遠の家において成熟するまで育てられました。」ですから、「人は日の栄えの両親の子孫」であり、「すべての人々は宇宙の父と母の似姿をしていて、文字通り神々の息子であり娘なのです。」(ブルース・R・マッコンキー、人:その起源と運命、348−355ページ;モルモンの教義、1966年、516ページ)

エルドレッド・G・スミス長老:

「天国において、地球が創られる前に、この地上での計画が私たちすべてに説明されました。私たちはその時、天の父や母の霊の子供でした。私たちはこの地上での生活によって、天の父母が経験されたのと同じような経過をたどり、彼らのような者になる機会が与えられるはずでした。記録によると、私たちは皆この栄光ある知らせに声を上げて喜んだのです。」

モルモンの文化では、天の母について歌います。

末日聖徒の賛美歌のいくつかは、歌詞に天の母についての信条を含んでいます。最も良く知られているのは、292番、エライザ・R・スノー作詞の「O My Father」(日本語では、「高きに栄えて」で180番)です。この歌では作者の一連の回想が天に母があるという結論に導かれます。

御父(みちち)と呼ぶべく みたまにならう

地の鍵受くまで      理を知らざリし

み親はひとりか      深く思えば

永遠(とわ)の真理は告ぐ  天に母ありと

この身を横たえ      世を去るときに

父母と高きにて      われは会えるや

仰せの御業みな      成し遂げしとき

受け入れみそばに     住まわせたまえ

賛美歌286番、「Oh What Songs of the Heart」(日本語は「われら天にまた会うとき」179番)はジョセフ・L・タウンセンド作ですが、至福の天での再会を歌っていて、天の両親と抱き合うシーンで頂点を迎えます。

いかにうたい何を聞くや   愛はただ広がり

喜びもて胸ははずむ     天の父母に会いて

ああ天の父、母に会いて   われら何をうたわん

1985年にイエス・キリスト教会は、青少年のための雑誌、「ニュー・エラ」にジャニス・カップ・ペリー作の「信仰によって歩む」という曲を掲載しました。この歌は若い女性にとって国歌のような存在になり、彼らが自分たちの神聖な受け継ぎを覚え、天に再び住むことができるように選び、約束するように励ますメッセージになっています。

私は信仰もて歩む、天の両親の娘として

神聖な受け継ぎをもち

いつか神様による試みの後

お顔を拝する日が来る。

でも今はここにおいて

信仰によって歩む

1844年に、ウイリアム・W・フェルプスは「預言者からの声:われに来よ」を祝祭の賛美歌として作曲し、イリノイ州のノーブーの建物の献堂式で歌われました。

真理と徳が栄えるところ、われに来よ;一致あり、年月が失敗に終わらない;心が考えることができず、普通の目で見ることができない、主が正しい者のためにだけ備えた、われに来よ。

われに来よ;人の目が見ることのない神秘あり;ここに御父と女王なる御母おられ、かつてより在りし世界あり、未来の世界あり、ここには永遠あり、終わりなき;アーメン:われに来よ。

天の母についての信条はモルモンの神学の随所に見られます。神が家族の永遠の性格について強調なさるときに、ご自分の天の母との聖なる関係を暗示なさっているのです。