聖書とともに、モルモン書は末日聖徒イエス・キリスト教会(しばしば誤ってモルモン教会と呼ばれる)では中心的な聖典です。モルモン書には多くの教義が書かれており、また多くの警告が与えられています。モルモン書の中で教えられている最も大切なレッスンの一つは、誇りがもたらす破壊的な影響力です。モルモン書にはまた、どのようにプライドを悔い改めたらいいのかについての勧告とイエス・キリストにおいて本当の幸せを見いだすことについての勧告が書かれています。

モルモン書の中で意味しているプライド

世の中で、プライドと言う言葉よく使われます。そしてしばしばそれは悪い意味でなく使われます。しかし、モルモン書の中では、高慢は徳ではなく、イエス・キリストから背教することに導くものです。キリストの教義の中で、プライドの意味することは、神に敵対すること、自分を神よりも愛することです。テモテはプライドについてこのように述べています。「人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、(中略)善を好まない者、(中略)神よりも快楽を愛する者」(2テモテ3:2−4)

モルモン書には神の戒めに従うよりもプライドを優先させた人々の例がたくさん出てきます。何度も繰り返し、個人のレベルでも集団でも、自分たちが天の父よりもよく分かっていると考えて、神の意志に耳を傾けるよりは自分の意志に従うことを選んだ人たちが居ました。これらの人々は預言者を追い出し、イエス・キリストに従う者を迫害しました。モルモン書には高慢な人たちの運命が示されています。彼らは霊の死を経験し、しばしば破滅に陥りました。

モルモン書には謙遜で神の前に悔い改めた人々に起こったことについても示されています。息子のアルマはモルモン書の中に出て来る人ですが、かつては非常にプライドが高く、積極的に神の教会を破壊しようとしていました。一人の天使が彼を訪れ、彼の罪の深刻であることに気づかせ、それからアルマは悔い改めることを選びます。ひとたび悔い改めると、彼は偉大な指導者になり、宣教師にもなりました。彼と彼の民は神の戒めを守る限りにおいて栄えました。モルモン書の中に見られる中心的なパターンの一つは、プライドは破壊に至り、謙遜さは繁栄をもたらすということです。

プライドは他の罪に導く

プライドはそれ自体の罪にとどまりません。霊的な意味で、プライドは有害薬物の入り口です。ひとたび自分の意志や願望に取り付かれてしまうと、神様が考えられることについてだんだん気にしなくなります。そして神と自分との間の対立関係が強くなります。このことは神の戒めに反した選択をもっとするように仕向け、そしてより物事に取り付かれるようになり、霊感を受けることが少なくなります。いざ、自分の願望の方が神の意志より大事だという状態を受け入れてしまうと、滑りやすい坂をより罪深く、より不幸な方向へと落ち込んでしまいます。

罪も様々な程度でやってきます。例えば嘘をつくのは罪ですが、多くの場合、それは単純で直接的な方法で修正することができます。それに対して、性的な罪はしばしば他の人を巻き込むので、取り返しのつかない結果を招くことになり、人の生活にはもっと深刻な結果を招きます。これらの罪から悔い改めることは難しく、痛みを伴います。と言っても依然として可能性はあります。すべての罪の根っこにプライドがあります。プライドが根を伸ばし始めのときに、芽を摘み取ってしまえば、多くの苦痛や頭痛を避けることができます。エズラ・タフト・ベンソン大管長はイエス・キリスト教会の最近の預言者でしたが、「プライドに対峙するものは、謙遜さです。(中略)神を愛することによって謙遜になることを選ぶことができます。私たちの意志を神の意志に従属させ、神のことを私たちの生活で優先するのです。」と語っています。

私たちはプライドについての教訓を自分の生活に応用できます

モルモン書の中の教訓はそのまま私たちの生活にも当てはまります。どこも見回しても、自分の願望や世界観に拘泥している人々が居ることに気づきます。政治問題から家族の生活まで、すべてのことについての意見はプライドの罠にはまってしまう傾向があります。とりわけ霊的な道徳心が関心事である場合、男女や、子供たちでさえ、私が大切にしている戒めや教義をあからさまにあざけるのを目にしてきました。サタンの最も威力のある道具はプライドです。

高慢の結末は、現実的でひどいものです。自分のプライドに陥っている人たちはしばしば幸せそうに、また成功しているように見えますが、彼らの霊的状態はうらやむようなものではありません。結局、プライドを自分の中に温存させている人々はその結末を身に受けなければなりません。謙遜や従順であることの祝福もまた、現実的なものです。神の戒めに従うことにより平安を得、霊的な安全、繁栄、イエス・キリストに対するより強い証が結果として得られます。

モルモン書を読んで救い主に従い自分の意志より神の意志を尊重することを選んだ男女について学ぶことから力や勇気を見いだすことができます。事実、従順で忠実であることを続けていると、自分の意志はだんだん天の父のものに似て来るのです。ですからその二つの間の違いはなくなるのです。

もし自分がプライドで固まっていると感じて、それから自由になりたいと感じるのであれば、イエス・キリストに目を向けるだけでよいのです。前に触れた息子アルマは天使が訪れたとき、どん底状態でした。アルマは初めて自分が教会と自分自身に対して害を与えてきた現実に目覚めたのです。彼をその罪から解放する力は、父親がイエス・キリストについて教え、キリストが救い主で、私たちを罪から贖なって下さると教えてくれたことを思い出すことから出てきました。この賜物はひどい罪を犯す人だけのためではありません。私たち全員のためであり、罪の大小には関係ありません。高慢は小さいところから始まり、非常に大きく、非常に深刻になり得ます。しかし主にとって、手に負えないほど大きな問題は決してありません。もし自分の生活を変え、神の意志を探し出したければ、イエス・キリストとその福音があなたの発見に道を備えてくれます。

モルモン書は答えを与える

プライドに対するこのようなアプローチは目新しいと感じるかもしれません。このことが全体としてどういう意味なのかを理解するのが難しいかもしれません。私がお勧めしたいのは、モルモン書の中に答えを捜すことです。この書物には完全な真理が含まれていて、実際の問題に対して現実的な解答を与えてくれます。もしプライドで悩んでいるのでしたら(私たちすべてがある程度この問題があると思います)、イエス・キリストに目を向け、主のようになろうとしてみて下さい。モルモン書を読んでいるとき、プライドやその破壊的な影響力についてもっと理解できるだけでなく、主イエス・キリストを知るようになり、しかももっと個人的で親密なものとして知識を得るようになります。私はモルモン書の中で教えられている教義を通して、自分のプライドに対して、平安と答えと赦しを見いだしてきたと知っています。私はあなたにも同じものが与えられると知っています。

この記事はcharlotteによって書かれました。彼女はブリガム・ヤング大学を2010年の4月に卒業し、学士号では英語を専攻し、編集を得意分野にしています。大学教育の間に、インターンとしてニール・A・マックスウェル宗教奨学制度、BYU出版、雑誌ニューエラで働きました。現在、オレゴンのポートランドに住み、夫と息子がいます。専業主婦であり、個人のブログ(smallandtrivial.blogspot.com)を通じて著作活動を続けています。