わたしがカイロプラクティックの学校で学んでいた時のことです。「もし患者が、『今までに経験したことがないようなひどい頭痛』を訴えてきたら、すぐに病院に連れて行きなさい!」という言葉を頻繁に聞きました。それを聞くたびに百円をもらうことができたならば、学費を借りることなく卒業することができたくらいです。

頭痛といっても、原因も症状もさまざまです。頭痛がする時、痛みは苦しいですが、比較的良性であるものがほとんどです。しかしときに、それは悪い病気の兆候として現れることもあります。教授たちは、わたしたちが将来患者の重篤(じゅうとく)な病気を見逃さないために、頭痛は重度の警告サインとして覚えておくよう、わたしたちの頭にたたきこみました。

カイロプラクティックの学校を卒業して6ヶ月後、役立つべきこの経験則を実際に体験することになるのですが、その時のわたしは、パニック状態以外の何者でもありませんでした。ある晩、妻は泣きながらわたしを起こしました。彼女は、激しく痛む頭をつかみながら前後に揺らし、苦しそうに大声で言いました。「こんなに痛い頭痛は初めてだわ!」

即座に眼が覚めると、医者として、また夫として妻を診断し、症状の治療方法を見つけようと、慌てながら質問しました。妻は、気力で一生懸命質問に答えようとするのですが、明確に答えるのも苦しそうでした。わたしが30個目くらいの質問をしたあたりで、妻は「掛け時計を止めて」と言いました。

それを聞くと、わたしは学校で学んだ無数の頭痛の症状を思い出し、一気に安堵感を覚えました。音に極度に敏感で、時計の音などが頭痛の痛みに影響する頭痛…。それは、片頭痛です。片頭痛は、激しい痛みではあるものの、一般的に命に関わるものではなく、予防治療により抑えることが可能です。わたしは、安堵で胸をなでおろしました。

しかし、ひとつだけ問題がありました。わたしたちの寝室には掛け時計がありません。考えられたのは、わたしが伝道中から使っていた電池式の目覚まし時計ですが、ボタンを押さないかぎり、光ったり音も出ないので、この目覚まし時計ではないだろうと思いました。妻は再度、必死に「お願いだから、あの掛け時計を止めてくれる?」と言いました。わたしは、慌てて真っ暗な部屋の中を調べました。「妻はいったいどの時計のことを言っているんだ?もしかすると、彼女は幻覚を起こしているのかもしれない。これは想像以上に深刻かもしれない」と思いました。 激痛に苦しみながら、妻はまた「お願い、早く時計を外して!」と叫びました。

すると突然、映画の一コマのように、わたしの聴力は鋭いレイザービームのようにパワーを増し、かすかな「チク…タク…チク」という音が聞こえてきました。わたしは、「洗面所だ!」と思いました。確かに、洗面所の壁には時計がありますが、その音は努めて聞こうとすれば聞こえるくらいの音でした。正直わたしは、洗面所の掛け時計が音をたてているなど、これまで気にしたことはありませんでした。急いで走って壁から時計を外し、それをクローゼットの服の山で覆うと完全に静かになりました。

妻は片頭痛が治るまで忍耐強く待ち、すべてが落ち着きだしたころ、わたしは何度も何度も、この経験について思いを巡らしました。これはどういうことなのだろうか?なぜ妻にあの時計の音が聞こえて、わたしには聞こえなかったのだろう?そしてある日ピンときました。彼女が時計の音を聞くことができたのは、それが彼女の頭を痛める原因だったからであり、わたしには痛みがなかったからです。 


教会の「時計」

教会では、個人的に自分には影響がないからと、単純に聞こえなかったり、いろいろなことに対して受け入れ体制ができていないことが多くあります。あの洗面所の時計の経験(人の痛みを聞きのがしてしまう経験)が初めてだったと言えたらよかったと思いますが、そうではありませんでした。正直に言えば、教会のベンチ席で自分の居場所がないと感じるLGBTQ(性的少数者)の会員がきっといたこともあったでしょう。そしてわたしは、彼らの心の痛みを「彼らの問題」と片付けていました。周りから尊敬されていたり、一目置かれているのに、過小評価されている気持ちがすると言う姉妹に対し、わたしは理解を示せなかったこともあったことでしょう。ワードの会員たちは自分とは違っていて、自分の境遇を理解してもらえないと感じ、教会に来るのが困難な人もいたかもしれません。そういう人たちに対し、わたしは「いつまでもくよくよしないで。神経質になりすぎてるんだ」と思っていました。

妻が掛け時計を外してと言った時に、もしわたしが彼女の言うことを無視したり、何も変わった事はないよと言ったりしたなら、それはおかしいでしょう。「君に問題があるんだ」や「強くなれよ。君は神経質すぎるんだよ」と自分が言う姿を想像すると、滑稽に思えます。しかし、別の状況を考えてみると、わたしには自分に影響がない事柄を見落とす傾向があります。

キリストと長血を患っていた女性との話で、わたしたちが学べる偉大な教訓は、主の癒しの力ではなく、主がまず彼女にお気づきになったことかもしれません。神は多くの場合、静かな細い声で話されますが、それはもしかしたら、わたしたちの霊の耳がもっと鍛えられ、周りにいる神の子供たちのかすかな時計の音を、聞き取れるようになるためなのかもしれません。ささいな言葉と思われがちですが、救い主の奉仕の業から学べる最も重要な言葉は、主が繰り返し勧告された「耳のある者は聞くがよい」(マタイ11:15)かもしれません。 


この記事はもともとIan Calkによって書かれ、
ldsliving.comListening at Church: Do We Dismiss What Causes Others Pain?の題名で投稿されました。