同じものを見て説明する時に、近くで見るのと遠くで見るの、また、違う角度から見ることによって、わたしたちはその同じものに対してきっと違った説明をするでしょう。それは人生をどう見るかに似ています。人生で神を信頼するなら、今まで見えなかったものがキラキラと見てくるのです。

 

わたしの住んでる谷

わたしの住む谷がどんな場所か説明して、と言われたら、その時わたしが何を重点にしているかによって違ってくるでしょう。玄関先からは、空がところどころと、家が数軒、りんご園、小さな馬牧場、遠くには低い山がちらちらと見えます。

高速道路からの谷の景色はと言えば、もっと周りのものを説明できるでしょう。フリーウェイからは谷は大きくて、山々に囲まれ、家、教会、会社の建物や大学がところどころにある、と言えます。南西の方角には大きな湖や農場が広がっていると説明できます。

でももし自分が山の頂上から見れば、谷の眺めはかなり広がるでしょう。これはわたしが18歳になった夏に自分の目で学んだことです。友達のスコットはわたしがティンパノゴス山に登ったことがないと知ると、一生に一度は頂上から眺めてみないと、と(強制的に)連れて行ってくれると言ってききませんでした。当時わたしは山登りが得意ではありませんでしたので、蒸し暑い8月の午後、スコットとティンパノゴス山のふもとに立って、3658メートルの試練を目の前にして、気持ちを奮い立たせようと格闘していました。

 

山登りに挑戦

雨や捻挫、虫刺されに何時間も悩まされ、ブツブツとつぶやいた後、わたしは友人とともにティンパノゴス山の頂上に立ちました。そして目の前に広がる景色に文字通り息をのみました。予想していたよりも、黄色や緑のパッチワークのような景色はほんとうにすばらしいものでした。下界にある木々、納屋、フットボールスタジアムまでもが信じられないほど小さく見えました。

しかしほんとうのサプライズは自分が住んでいる地区をはるかに超えてずっと広い範囲を見ることができたことです。東を向けば、静かなヒーバーバレーや深い青色をしたディアクリーク貯水池が見えました。北を向けば、ソルトレーク郡、そして振り返って自分の住んでいる谷に目を向けると、低い西の山々を超えてずいぶん遠くまで見えることに驚きました。思ったより頂上から見る眺めはずっと大きく広いものでした。

 

物の見方

ティンパノゴス山を「征服して」から2年近くたった頃、わたしは中国のホテルの会議室で24人の大学生とともに席についていました。2週間のアジアツアーにモルモン教の十二使徒であるブルース・R・マッコンキー長老を迎える特権にあずかりました。ファイアサイド(集会)でマッコンキー長老がお話をするということが発表され、わたしはどんなテーマかしらとわくわくしました。結婚、純潔、証を得ること、あるいはヤングアダルトにとって大切な何かではないかと想像しました。しかしこのモルモン教の使徒は物の見方について話したのでわたしは驚きました。今となっては何十年も昔のことで、話の内容の細かいことは忘れてしまいましたが、わたしたちに永遠の観点について教えることを彼が選んだという事実はその重要性についてわたしが最初に気づくきっかけとなりました。置かれた状況についてどう感じるかはわたしたちがどの観点に立つかによって大きく左右されます。物の見方は痛みや悲しみや個人的な弱さを認識し、自分なりの捉え方を形成するのです。

幸せの偉大な計画とわたしたちの成長のための神の設計図について理解すると、わたしたちの心は広がり、試練によりよく耐えられるようになります。キャサリン・トーマスはそれを美しく述べています。「わたしたちが自由になるか、閉塞感を感じるかは目の前に起こっていることをどのように解釈するかにかかっています。起こっていることを起こるべきでないものとして、また自分はそれを変えられない、と解釈すれば、わたしたちは苦しみます。もし変えることのできないものを、神が自分のために明らかにしてくださったものの表れとして信頼して受け入れられれば、わたしたちは平安を感じることができます。」

居間には40センチくらいの深緑で縁取りされた黒い木製の額がかけてあります。そこにはラルフ・ワルドー・エマーソンの賢明な言葉がクリーム色の文字で書かれています。

物の見方に関しての引用

見てきたもの全ては、まだ見ていないことについて、創造主を信頼することを教えます。ラルフ・ワルド・エマーソン (写真は全てldsmag.comより)

最初、若い宣教師時代にこの言葉を読み、印象に残ったのは覚えています。しかし、年月がたつにつれてエマーソンの言葉がこれほど大切なものになるとは当時は分かりませんでした。時折「この言葉は実際は聖文ではない」と自分に言い聞かせるほどで、わたしに大きな影響を与えてきました。成人してから学んだ偉大な真理の一つは、神はわたしのための神の計画の詳細を一から十までわたしに教える義務は負ってはおられないということ。むしろわたしのための計画に神が介在されたことを疑ったり、不思議に思ったりしないなら、それはわたしに損失になるということです。でもわたしが神の御言葉を学び、神殿で深く考えるにつれ、今いる孤立した谷よりもずっと多くのものがあるということを神は少しずつわたしに示され安心させてくださいました。「御霊が永遠を垣間見せてくれました。」

福音あるいは永遠の展望は山の頂上から見る景色のようです。かつては巨大にそびえ立っていたように見えた問題がもっと扱いやすいものに見え、この世の生活は一時的な実験場にいるかのように認識できるようになります。神への知識を得て成長するとき、神の知識や神の展望はわたしたち死すべき人間の見ている眺めをはるかにしのぐものであるということが非常にはっきりと分かってきます。「神を信じなさい。神がましますこと、神が天と地の万物を創造されたことを信じなさい。神はすべての知識を備え、また天と地の両方で一切の権威を持っておられることを信じなさい。さらに、人は主が理解される事柄すべては理解しないということを信じなさい。」(モーサヤ4:9)

「…すべての物事は、万事を御存じである御方の知恵によって行われてきた」(2ニーファイ2:24)ということを信じてください。わたしたちが見えるよりもずっと先を神はご覧になることを知り、信頼することをすれば、わたしたちは守られるということを信じてください。

 

この記事はもともとLynne Perryによって書かれ、ldsmag.comに投稿されました。