中学生こころの作文コンクールでの受賞作品にはこう書いてあります。「『区別』とは、あるものとの違いを認めて、はっきり両者を分ける事で、『差別』とは、偏見や先入観を元に特定の人々に対し、不平等な扱いをする事である。つまり、『区別』は相手を認めた上での分け方なのだが、『差別』は認める以前に分けられてしまっている」
差別と区別は似ていますが、少し違います。わたしたちの身の回りには、人種、年齢、性別、宗教、学歴、犯罪歴、病気、障害などに対しての差別が存在します。
では以下の項目は区別か、それとも差別か、考えてみましょう。
1 トイレが男子トイレ、女子トイレに分かれている
2 仕事に応募したが、外国人である事を理由に不採用となった
3 幼稚園で年齢別にクラスを分けた
4 障害を理由に入学を断られた
1と3は区別、2と4は差別です。では2と4はなぜ差別なのでしょう。上記にあるように2と4は認める以前に不当に分けられてしまっています。
差別に負けずに夢を叶えた義父の実話
義父はアメリカで育ったメキシコ人です。高校3年生の夏、彼は小さい頃からの夢であった医者になるために、医学部を目指したいと高校のカウンセラーに話しました。そのカウンセラーは、「君はメキシコ人だから、医者は諦めて違う職業に就いた方が良い」と彼に告げました。それでも義父は進路を変えることはなく、4年制大学、大学院、その後のメディカルスクール、研修医と、寝る時間もありませんでした。学生の間は朝4時から勉強、夕方家に帰ってきて勉強、その後夜間の銀行の掃除のアルバイトで家族の生活費を稼ぎました。医者への道は決して簡単なものではなく、何度も挫折しそうになりながらも、医者になるという夢を諦めることはありませんでした。
言葉には思った以上に影響力があります。残念な事に、彼は今まで人種が理由で「あなたにはできないよ」という言葉から自信をなくし、夢を諦めていった仲間たちをたくさん見てきたと話していました。
差別を無くすためには、もっとたくさんの人が自分の経験や思いを発信して、差別の現状を知ってもらう事じゃないかなと思います。でも残念ながら、差別はこれからも完全に無くなる事はないと思います。しかしそれと同時に、差別を受けた時にその経験に潰されることなく、自分をしっかり持つことができるかという事も大切であると感じます。差別が存在する事実や差別がなかなかなくならないということを受け入れる事は必要ですが、それは差別は許されるべきだと言っているわけではありません。差別を受ける事で夢を諦めたり、自分を見失ったり、落ち込んだり、人や社会を恨む事に時間を費やし、無駄にしないで欲しいという事です。人には違いを排除しようとする性質が少なからずあります。
ドキュメンタリー「becoming」の中で、ミシェル・オバマ氏はこのように言っています。
「どんな状況にあっても、あなたは自分で自分が輝く道を見出さなきゃいけないわ。そして夢をつかむの」また、「自分に嘘をつかない事。そして他人が言うことのせいで目指すべきゴールから注意をそらさないようにすること。これが、わたしが育つ上で学んだ事のひとつです。」
わたしは10年間の海外生活の中で、違いをからかわれたり、批判されたり、仲間として受け入れてもらえなかったり、名字だけで家探しや就職活動がなかなかうまくいかなかったりと、色々な経験をしてきました。しかしよく考えると、差別をしている側はほとんどの場合、わざと相手を傷つけようと思っているわけではないという事に気が付きました。そして自分が差別していることに気が付いていない場合が多いのです。逆に、わたし自信も気が付かずに誰かを傷つけてしまっている事もあるかもしれません。
イエス・キリストは、十字架に掛けられた時にこうおっしゃいました。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカによる福音書23:34)
わたしはイエス・キリストのこの言葉をいつも思い出します。自分の命を奪おうとしている人に愛を示す事のできるイエス・キリストの模範は、わたしの支えとなっています。不当な扱いを受けたとしても、愛を示す事ができれば、きっと差別をしている人の心にも何かしらの変化があるかもしれません。
違いを受け入れ、愛する
この世にまったく同じ人は存在しません。ひとりひとり違う性質を持ち、違う考えや意見を持ち、違う環境で育ち、違う文化を持ちます。神様はそのように人間を創造してくださいました。その違いが混ざり合って理解し合い、互いに学び合う事は、とても美しい事であり、大きな祝福であるとわたしは思います。違いがなければそこに新しい発見や、成長はありません。
ラッセル・M・ネルソン大管長は差別について次のように話しました。
「わたしたちは神の子なので、神のようになる可能性をもっています。すべての人は神の目に等しい存在です。この真理が意味していることは非常に深遠です。兄弟姉妹の皆さん、これからわたしたちが話すことに注意深く耳を傾けてください。神は特定の人種を偏り見られません。このことに関する神の教義は明白です。主は、『黒人も白人も。束縛された者も自由な者も、男も女も』すべての人をご自分のもとに来るよう招いておられます。神のあなたに対する評価は肌の色によって決められていないことを断言します。」(2020年10月総大会)
「『しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、のろう者を祝福し、憎む者に善をなし、不当に扱い迫害する者のために祈りなさい。』(欽定訳マタイ5:43-44から和訳)
敵や対抗者を愛するのは容易ではありません。『わたしたちの多くは、……愛と赦しの段階にまだ到達していません』とゴードン・B・ヒンクレー大管長は述べ、こう続けました。『自分の限界を超えるほどの自己訓練が必要です。』しかし、そのような愛が不可欠です。それが救い主の二つの大切な戒めの一部だからです。『主なるあなたの神を愛せよ。』『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。』(マタイ22:37、39)そしてそれは可能なはずです。救い主はこうも教えておられているからです。『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。』(マタイ7:7)」とダリン・H・オークス管長は言いました。(2020年10月総大会)
確かに差別をされたり、自分に優しくない人を愛することは簡単ではないですよね。わたしにもそういう経験があります。わたしにはどうしても苦手で愛することができなかった人がいました。わたしはその人との人間関係を諦めてしまいたい気持ちでいっぱいでしたが、その前に神を信じて祈ってみようと決めました。それでもだめな時は諦めようと思ったのです。わたしは毎日祈り続けました。時間はかかっているものの、その人の良いところや生い立ち、色々な事が少しづつ理解できるようになりました。同時に、あんなに苦手だったのに、その人との関係を良くしたいと感じるようになりました。
差別は許される事ではありません。現在も差別を受け、苦しんでいる人がたくさんいる事を悲しく思います。(気が付かずに)差別をしてしまっている人が正しい知識、そして差別の現状を理解して愛を示す事ができるように、そして差別を受けている人が差別に負けずに、自分を、そして相手をも愛する事ができるように、両者が歩み寄る事で差別が少しづつ確実に減っていくことを心から願っています。差別と区別に関する皆さんのコメントをお待ちしております。
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