フィルムを通してストーリーを分かち合い、ストーリーを通して世界を理解し、自分の居場所もわかるようになります。

とても尊敬していた先輩の男性からどういうふうに人生を進めばいいか助言をもらい、一緒に会話する機会がありました。俳優になりたいと伝えたら、家族がほとんど家にいなっかた時のことを話してくれました。彼と息子だけだったので絆を強めるために時間を一緒に過ごすことにしました。父親はレストランを選び、息子は晩御飯の後に見る映画を選ぶことにしました。

その映画は父親にとってとても不快なものでしたが、息子は別に気にしていませんでした。なので父親は息子に映画についての感想を聞きました。

息子は肩をすくめ、「よくも悪くもなかったよ」といいました。

「悪い言葉や性的なことが気に障らなかったかい?」と父は聞きました。

「いや、別に。他のものと比べたら結構軽度なものだよ」と息子は答えました。

「そう?それじゃあデートの時に映画を観たりする?」

息子は一瞬考えて、「そうだよ」と答えました。

次の質問はとても深く考えるものでした。「救い主と一緒にその映画を見に行くかい?」と父親が尋ねました。

息子は救い主とどの映画も観に行きませんといいました。そこで先輩は「そう、だから私は映画を観に行かないよ」と答えました。

その会話について何年か考えたことがあります。そして私たちは二つの違う考え方について話していたのではないかと気がつきました。

すべての映画が本質的に邪悪だから連れて行くわけではなく、イエス様自身と顔をあわせる機会が与えられたら映画なんか見に行かないということです。

だからわたしは映画には行きません。そしてアメフトのゲームにまたは宗教と関連している大学のチームが戦っていても行きません。アメフトは邪悪ではありませんが、世界を創造した人とアメフトを見に行くはふさわしくないように思えます。(しかし、アメフトはわたしにとってとても退屈なものなので一番良い例ではないかもしれません。)

主と一緒に時間を過ごすと思うと、いろんなふさわしくない活動を思い起こすことができます。でもレクリエーション、娯楽にはそれぞれに適切な時間と場所があると思います。

そして映画を人生から切り抜くのはよい結果より道徳的なダメージを与えます。結局フィルムはストーリーを教えるもう一つの方法であり、そしてストーリーを通して世界を理解することができ、自分の居場所もわかるようになります。だからこそイエスは地上での使命を果たしていたときに多くのストーリーを使いました。

今日のポップカルチャーで話されてるおもなストーリーは、私たちの時間を取る価値がないように思えます。なので私たちは後退するより前に行動するよう動かないといけません。暗闇より称賛に値することを見出し、光に近づくことが重要です。そしてそのようなよいものを見つけられなければ自分たちでそのようなよい映画を作るべきではないでしょうか。