自由になるには真理が必要なのです。

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。(ヨハネ8:31−32)

物事を慎重に勉強して、真実を見出すことを個人の目標にしています。多くの場合、真実と思われているものは、事実に関する情報よりも、人気のある意見に影響されたものであることがあります。例を挙げると、何百年も前の人々は、地球は平らであると信じていました。人々が信じていたことは、地球の形に関する真実に何の変化ももたらしませんでしたが、彼らの進歩を妨げました。他の例として、わたしの育ったノースダコタ州でのことが挙げられます。当時喫煙はとても一般的なことで、多くの人がタバコは体に害を及ぼさないと信じていました。彼らが知識不足だったからといって、喫煙者が直面した死にも至る様々な悪影響を避けることはできませんでした。

 

真実を学ぶこと

真実を学ぶには、多くの努力、観察、時間、そして勉強が必要です。犯罪学、結婚関係、または霊的な原則など様々な勉強において、無知でいることは良い決断をする、また真の意味で自由になる能力に限界を与えます。真実がどれほど卑劣で痛々しいものであったとしても、真の意味での自由は真実を学び、生活に当てはめることを通してのみ可能になります。

わたしは犯罪、薬物使用、そして家族関係についての勉強をする社会学者です。わたしの目標は、人間の行動をありのまま理解するようになることです。なぜ人が薬物使用と犯罪に関わるようになったのか、それによって彼らの人生がどう変わったのか、そして犯罪を思いとどまる人とそうしない人の違いについてなどです。何年もの間、多くの時間を人間の行動について考え、勉強することに費やしてきました。何人もの囚人にインタビューをし、彼らの見解や状況をよりよく理解できるよう努力しました。犯罪や薬物乱用による個人や家族への悪影響を目の当たりにするのは深刻なものでした。行動の変化についても勉強しました。犯罪や薬物から手を引くことを学ぶ人もいれば、そうではない人もいます。最近の研究では、薬物使用や犯罪から身を引くことを学ぶ上でのまわりの人からの支援と霊的な希望の重要性を指摘されています。

盗難や飢餓、暴行、強姦、愛する人の死、などの非常に困難で不幸な経験をする人のことを思うと胸が痛みます。この世界での痛みや苦しみに関わらず、わたしは希望が存在することを知っています。どこかで耳にした「浜辺を歩く少年の話」が頭に浮かびます。少年は引き潮に置いて行かれ浜辺にうちあげられた何百ものヒトデを目にしました。ヒトデは海に戻れないと、乾ききって死んでしまいます。少年は浜辺を歩きヒトデを拾い上げては海に投げて返しました。同じ浜辺を歩いていたある男性がその少年の姿を見ました。そして、大量にうちあげられたヒトデの数と、少年ひとりの力で救うことのできる少しの限られたヒトデの数を見て、男性は少年に彼のしていることは無駄だから諦めた方が良い、と言いました。少年はもうひとつヒトデを拾い上げ、海に投げ、こう言いました。「このヒトデにとって、無駄じゃないから。」

選択の自由のゆえに、困難な状況に直面する人はたくさんいて、恐ろしい犯罪の被害者となってしまう人もいます。いつか、犯罪を犯した全ての人は神様の前で責任を取る必要があります。そして神様とキリストは被害者たちを慰め、癒します。

周囲の苦しみを緩和するためにわたしたちにもできることがあります。ずっと昔に読んだ詩にはこうあります。

わたしはたったひとり
それでもひとりだ。
全てできるわけじゃない
でも何かはできる。

自分自身の経験を通し、イエス・キリストの原則は真実で、末日聖徒イエス・キリスト教会はキリストの教会であるとわかりました。教会はわたしたちを支え、正しい原則を学べるよう助け、自由に、有能に、また幸せになることを可能にしてくれるよう組織されました。イエス・キリストから与えられた原則に沿った生活をしない人のせいで、たくさんの傷や痛みや悪が存在します。

この世界で平安や幸福にたどり着くために、人はイエス・キリストの教えられた原則を守る必要があることを知っています。キリストの原則にそった生活をするにつれ、わたしたちは試練に向かい合い、試練からたくさんのことを学べるようになります。キリストの戒めはわたしたちを縛り付けるものではなく、自由にしてくれるものです。神様はわたしたちに導きを示し、助言、希望、そして霊感を与える、生ける預言者をくださいました。預言者を通して与えられる神様からの助言を受け入れるのも、拒むのもわたしたち次第ですが、自分の選択のもたらす結果は必ず受け入れなければなりません。

わたしは、これらの原則が真実であるという神様からの証を個人的に得ました。わたしの霊的な経験は、人生で経験した他の様々なことと同様現実性のあることです。社会学の勉強が救い主イエス・キリストの信仰を裏付けるものとなりました。これらの原則に従って生活することを学ぶにつれて、より自由になりました。

神様が地上の全ての人間を愛しておられ、真心から神を求める者の祈りにお答えになることを知っています。何年もかかかるかもしれませんし、答えは予想していない方法で与えられるかもしれません。また、期待していたり望んでいたのとは違う答えが与えられるかもしれません。それでも、神様は祈りにお答えになるということを証します。

キリストはアメリカ大陸を訪れた時こう言われました。「めんどりが羽の下にひなを集めるように、わたしはあなたがたを幾度集めようとしたことか。」(3ニーファイ10:5)キリストはわたしたちに選択の自由をお与えになり、誰も強制的にキリストの元へ来るようにはされません。しかし、彼の御腕は開かれ、わたしたちが真に彼を求めるなら、主は助けてくださいます。

 

この記事はもともとStephen J. Bahrによって書かれ、mormonscholarstestify.orgに投稿されました。