今日食べる物から進路、結婚相手まで、多くの場合わたしたちは自分で選ぶことができます。しかし、選びを間違えたことで失敗したという経験はありませんか?しかも、誰かが悪いことを選んだせいで関係ない人が危害を受けることもありますよね。

どうしてこんなことが起きるのでしょうか?

この記事では、いつも正しいことを選べないことや悪いことを選ぶ人が存在する理由を、末日聖徒イエス・キリスト教会の教えである「選択の自由」から紹介します。

選択の自由:選べる特権

選択の自由とは、神様がわたしたちに与えてくれた特権です。「自分で選んで行動する能力」ともいいます。わたしたちは自分で自由に選ぶことができるんです。そして自由に自分で選ぶことで、わたしたちは経験から学んだり成長することができます。

自由に自分で選べる「選択の自由」は、神様がわたしたちが悪を選ぶことも許しているということになります。福音の原則「選ぶ自由」より

どうしてでしょうか?

強制は神様は望んでいない

選択の自由の始まりは、わたしたちが生まれてくる前までさかのぼります。

地球が始まる前に、全人類が集まって、神様から1つの計画(救いの計画)について聞きました。

それは、地球へ行っていろんな経験から成長して、また神様のところに戻って来るというものです。それができたら、わたしたちにも霊の子どもができて、神様のようになることができると信じています。

しかし地球での生活で、わたしたちは欺かれたり罪を犯して神様のところに戻れなくなることを学びました。神様は「選択の自由」を使って善悪を選ぶことができるようにしてくれましたが、人の弱さから神様の望むことを選ばない可能性があると知りました。

そこで1人が「全人類を救って、1人残らず神様のもとに帰ってくることができるようにする」と言いました。

でもそれは神様の望んでいたことではありませんでした。この提案は、「選択の自由」の特権を使わず、成長する機会もないまま、神様のもとに戻るということだったからです。

全人類は生まれる前に人生の計画を聞いた。 これを「天上の大会議」という。

この提案をしたのはサタンです。神様は、神様が望む通り計画が行われるように助けると言ったキリストを選びました。

その結果、サタンは神様から背き、人類を欺いて神様のもとに戻ることを邪魔するようになりました。

この話から、神様は正しいことであっても強制することは望んでいないことが分かります。

誰かが悪い選択をするなんてことが起きるのは、このためです。

わたしたちは選択の自由を使って正義と悪を選ぶことが求められているのです。

悪があるから得られるもの

悪いことがこの世からなくなればいいと願うことが、わたしはあります。しかし、キリストは悪いことも必要だと、教えました。それは正しいことが何かを知るためです。

すべての事物には反対のものがなければならないからである。……もし事物に反対のものがなければ,義は生じ得ないし,邪悪も,聖さも惨めな状態も,善も悪も生じ得ない。」(2ニーファイ2章11節

病気、失敗、別れ、悲しみ、失意、死などはとても苦しい経験です。これは試練と言ってもいいでしょう。その試練を通して人は成長します。試練は苦しみとも取れますが、自分自身を精錬する機会とも受け取れます。。そして悲しいことや苦しいことを経験することで、喜びを知ることができます。喜びも選択の自由で選ぶことができます。

正しいことを選ぶ才能がある

選択の自由は「神様が与えてくれた特権で、わたしたちが自分で選んで行動できる能力」だと先にお伝えしましたが、わたしたち1人1人には正しいことを選ぶ才能を備えていることを忘れないでください。

見よ、善悪をわきまえることができるように、すべての人にキリストの御霊が与えられているからである…。善を行うように誘い、またキリストを信じるように勧めるものはすべて、キリストの力と賜物によって送り出されているのである。したがってあなたがたは、それが神から出ていることを完全に理解してわきまえることができる。

しかし、悪を行うように、キリストを信じないように、キリストを否定するように、神に仕えないようにと人に説き勧めるものは何であろうと、それは悪魔から出ていることをあなたがたは完全に理解してわきまえることができる。…悪魔はだれにも善を行うように説き勧めない。モロナイ書7章16-17

正しいことを選ぶ一つのポイントは、キリストです。生まれる前の会議で神様の望む計画を行うと言ったキリストは、正しいことを選ぶコツを用意しました。聖典に書いてある教えがそうですね。そして、わたしたちが間違ったことを選んでも、やり直す方法も準備されました。これをキリストの贖いといいます。
またキリストの御名によって祈ることで、たくさんの助けと勇気と導きを得られます。

正しいことを選ぶために


選択の自由で後悔しないためにできること

間違ったことを選びたくないですが、人が選択を誤ることを神様は想定していたようです。ニュースなどを見ていると、たくさんの悲しい事件や出来事があります。その人が間違ったことを選んだから起きてしまったことがたくさんあります。

正しい選択をしなかったら、自分が困るだけではなく、時にはほかの人を苦しめることもあります。大きな例えを出すなら、戦争です。銃乱射などほかの犯罪もそうですね。

犯罪だと分かっていてそれを選んで、すぐには逮捕されず、一時的にうまくいくかもしれません。しかし、その後逃げ続けたり、犯してしまったことを後悔しながら生きる、家族や友人が犯罪者と繋がっているということで生きづらくなる、という結果は選べないのです。

選択の自由は、相手が不幸になってもいいから自分だけが幸せになるために使うことを神様は望んでいるのでしょうか?わたしたちを愛している神様はきっとそんなことを望んでいません。わたしたちはよく考えて選ぶことが必要ですね。

そのために次のことをおススメします。

正しいことを選ぶためのアドバイス

何を選ぶかは自由だが、結果は選べない

善悪のどちらを選ぶかは自由ですが、上述したように選んだ後についてくる結果は選べないことを忘れないでください。

たとえば、遊泳禁止のビーチに行ったとします。そこであなたは泳ぐのか泳がないのか選ぶことができます。しかし、泳いだことによって注意を受けることも自分や大切な人を危険な目に合わすリスクを無くすことはできません。

何を選ぶかは自由だが結果は選べない

そしてこの例にはもっと選択肢があります。砂浜で遊んだり散歩することができます。景色を眺めたり、誰かと潮風を浴びながら会話を楽しむことができます。泳がないことを選んだら、もしかしたら砂で汚れるかもしれません。海に入って水の気持ちよさを感じることができないかもしれません。でもあなたはどの結果がいいですか?

選択の自由はわたしたちに与えられた大切な権利ですが、選んだことに対する責任を追うのは人に与えられた義務なのでしょう。

自分で選んだことで得たことと得られなかったこと

わたしは10代の頃、教会に行きたくありませんでした。それを知っていた父は、イヤイヤ教会に行くくらいなら、思いっきり部活をして賞を取ってみるように言いました。(よほどの態度だったのでしょうか…)また、賞を取れなくてもとにかく一生懸命練習に励むようにとも言いました。

そして教会に行かない条件を付け加えました。

宣教師が家に来てくれたら、一緒に時間を過ごして、相手が楽しい時間を過ごせるような態度でいること、部活が休みの日は教会に行くこと。

教会より部活を選んだことで、同世代の教会員たちと10代の頃に仲良くなる機会はありませんでした。のちに仲良くなった子たちの話を聞くと、教会が嫌いだった頃に彼らに出会っていたら、教会での時間はもっと楽しくなっていたかもしれません。そして10代の頃の悩みも主が望む方法で解決できたかもしれません。でも、それがわたしが選んだ結果でした。

結局、父は教会に行かないという選択をさせてくれましたが、それはわたしの好きにしてもいいというものではなく、わたしが成長するために必要なことをちゃんとできるように、父が神様から導かれていたのでは、と今は思います。

今までしてきた選択の一つ一つが今の自分を作っていることも知っています。私が選んだことはすべてが最良ではなかったかもしれません。ただ、自分なりに一生懸命に考えて、断食をしたり祈って決めたこともありました。そのおかげか後悔はあまりありません。また、神様は何を望んでいるかと考えながら選ぶことで、安心感と勇気がいつもあります。

正しい選びは、正しい知識と正しいことを選びたいという望みで実現できるでしょう。しかし、弱い部分があるわたしたちは、やっぱり神様の助けやキリストの教えがないと間違えてしまいます。より良い自分になるために、後悔しないために、ぜひ福音から自分で選ぶ方法を学んでみませんか?

質問:後悔しない選択の方法をもっと学んでみませんか?