末日聖徒イエス・キリスト教会(しばしば誤って「モルモン」と呼ばれます)の初期の会員は暴徒や誤った方向に向かった官僚のため多くの困難に遭いました。会員たちの足跡をたどるとき、信仰とアメリカ合衆国でわたしたちが享受している自由の法律の精神を維持することの大切さは多くを教えてくれます。

ソルトレーク大学のインスティテュート教師であるケネス・メイズは末日聖徒イエス・キリスト教会に関連した歴史に深い造詣があります。ほとんどのモルモンの歴史的遺跡はニューヨーク、イリノイ州ノーブー、ユタ、オハイオ州カートランド、そしてミズーリ州インディペンデンス近郊にあります。しかしメイズはあまり知られていない(モルモン)の遺跡を訪ねることを趣味としていました。

メイズはこの度モルモンの歴史的遺跡であまり知られていない上位10位のリストを作りました。

 

トーマス・L・ケインの礼拝堂

トーマス・ケインは末日聖徒イエス・キリスト教会の会員ではありませんでしたが、初期の教会員たちの数少ない友人の一人でした。多くのモルモンは何度も家を追われ、知事の撲滅令によりミズーリ州からも排斥されてしまいました。ケインは政治とのつながりがあったので、聖徒の代わりに自分の影響力を使おうとしました。また預言者ジョセフ・スミスの殉教後、モルモンがユタの砂漠に逃げたときにブリガム・ヤングと緊密に働きました。

ケインはペンシルバニア州ケイン在住で、おばのアン・グレイ・トーマスの依頼により1878年に長老派の礼拝堂を建設しました。彼は礼拝堂の石でできた入り口の間に埋めてほしいと依頼しました。

1970年にこの礼拝堂は末日聖徒イエス・キリスト教会に買い取られました。通常教会ではそこに何か施設を建設しますが、ケイン礼拝堂には何も手を加えることなく、トーマス・ケインに敬意を表して彼の名前は今も残されています。また、建物内にケイン少将の像を建立しました。

 

ジョン・ヤングの小屋

この小屋はいまだに何とか建っていますが、ブリガム・ヤングの息子であるジョン・ヤングが所有しており、アリゾナ州フラグスタッフにあります。教会の第4代大管長のウィルフォード・ウッドラフはかつてこの近くの森に野営したときに示現を受けました。

この小屋とフラグスタッフの定住の歴史について語るリトル・リルー・スプリングを見るには森林警備員の案内があります。

 

ハネムーンの道

ハネムーンの道はアリゾナ州ウィンズブローからユタ州セントジョージまでつながっています。名前の由来はそこを新婚の人々がよく旅をしたからです。モルモンの教義では純潔の律法(結婚外での性的な関係を禁じ、結婚の誓約に完全な忠実さを求めるもの)を強調していますが、モルモンの神殿でこの世だけでなく、永遠に結び固められる結婚をすることの重要性も強調しています。ユタにおける初期のモルモンの歴史では、長年の間一つの神殿しかありませんでした。それはセントジョージ神殿でした。婚約した二人が結婚せずに神殿までの長い旅をするのは不適切であると考えられたので、二人はセントジョージの神の神聖な神殿に行く前に市民結婚をしました。

多くのカップルは道すがら自分たちの名前を刻み付けました。砂岩の崖に名前を彫ったり、道沿いの車軸グリースに名前を書きました。

 

ミドルスプリング

カンザス州北東のモートン郡のエルクハートの北約14キロのところにあるミドルスプリングはモルモン大隊の隊員が歩いたルートにそって重要な地点となっています。モルモン大隊とは1846年のメキシコ戦争を支援するために合衆国政府から「招かれた」500人の末日聖徒からなっています。多くはモルモン大隊に入るためにユタ準州に旅をしていた家族を置いてきました。彼らはジェームズ・アレン大佐に率いられましたが、大佐は途中のカンザス州レブンワースで亡くなりました。

モルモン大隊はサンタフェトレイルのシマロンルートをたどり前進しました。これは水がないということで悪評の高い危険な道でした。ミドルスプリングはモルモン大隊にとってとても重要な拠点で、約80キロも90キロも暑さと砂にまみれて道を行く彼らはそこで初めて新鮮な水にありつくことができたのです。このような旅はしたくないものです。暑く汗をかいている身にはそこで体をきれいにしないというわけにはいきません。

 

馬車の跡

ワイオミング州のガーンジー州立公園はオレゴンからの道の元のいくつかのわだちの跡を保存するようにしていました。その一部はモルモンの開拓者が通った同じ道です。元のわだちの跡は開発や侵食でほとんど消えてしまいましたが、ここではほとんど完全な形で保存されています。

メイズによれば「馬車や手車の車輪は岩に刻みこまれました。これらの跡は驚くべきものです。ある場所は120センチから150センチ深くなっています。その地域のほかの場所は30センチほどしか深くなく、両側に草が生えています。」公園の800メートルほどの広場ではこれらのわだちの跡を保存しています。岩にそれほど深くわだちの跡がつくというのはある種の決意です。開拓者たちはほんとうに鉄の意志を持っていました。また、そこから800メートルほどのところにはレジスタークリフがあり、多くの開拓者はそこの岩に名前を彫りました。

 

スコッツブラフ

モルモンの開拓者の道のもう一つの拠点はネブラスカ州のスコッツブラフで、そこからは広大な草原を見渡すことができます。ブリガム・ヤングが1847年にここから聖徒の最初の一団を率いたとき、彼は仲間の軽率な行動や汚い言葉に辟易しました。スコッツブラフの近くでヤングは「これは捨て置けない」と言ってそれらの人々の行動を激しく非難しました。ブリガム・ヤングに叱責された聖徒たちはソルトレーク盆地までの道では行いを改めました。

スコッツブラフは国定史跡として保存されています。

 

アウトフィッティングステーション

1847年に聖徒が最初にソルトレーク盆地に入植した数年後、伝道の業は多くの改宗者をヨーロッパからアメリカ合衆国にもたらし、これらの謙遜な人々は末日聖徒イエス・キリスト教会の人々の群れに合流することを望みました。ニューオーリンズに船でやってきた多くの人々はミシシッピ川、ミズーリ川を経て西に向かいました。けれども着の身着の彼らはまず最初に服を整える必要がありました。一つのアウトフィッティングステーションはネブラスカ州ワイオミング(当時ネブラスカ準州にはワイオミングが含まれていました)にありました。この特別な場所は1864年に設立され、3年ほど使われました。今日残っているのは古い店の場所を示す小さなプラカードです。今日は個人の所有となっています。メイズは所有者と話したとき、所有者はその場所は特別な御霊を感じる場所であるということが分かったということで、メイズ自身もそこを訪れたときに同じものを感じました。

この地域は聖徒が後にユタ準州に定住地を定めるまで文化的なものの最後のなごりとなったのでした。

 

ブリガム・ヤングの生誕の地

バーモント州の南の境のウィティンガムという小さな町には、末日聖徒イエス・キリスト教会の第2代大管長のブリガム・ヤングの生誕にまつわる記念碑が複数あります。ブリガム・ヤングはジョセフ・スミスの殉教の後、1847年に聖徒たちをソルトレーク盆地に率いた人です。聖徒たちは何度も家を追われ、ついに人里はなれた場所を見つける望みを持ち、その土地から逃げました。けれども彼らが出発して間もなく新しい土地は準州として合衆国の一部となりました。

ブリガム・ヤングが生まれた土地は末日聖徒イエス・キリスト教会の所有ではなかったので、元の家は残っていませんが、私有地に記念碑があり、現在の所有者はその記念碑をそのままにしています。

 

モルモンの神殿

「モルモンの神殿」は単なる愛称で、実際は末日聖徒イエス・キリスト教会とは何の関係もありません。イリノイ州ジュネーブにあるこの建物は少なくとも最初は末日聖徒が使いました。聖徒はイリノイ州ノーブーに定住しましたが、ジュネーブに落ち着いた者もいました。彼らは神殿を建てるために堅固な基礎をそこに据えましたが、建物が完成する前にブリガム・ヤングとともに西部へ行くことになってしまいました。後の定住者たちは堅固な基礎を見て、その上に建物を建てることにしました。「モルモンの神殿」はその愛称を保ったまま美しい赤れんがの家で現在に至っています。

 

チャットバーンバプテスマフォント

1837年に末日聖徒イエス・キリスト教会の少数の宣教師たちはイギリスに派遣されました。ヒーバー・C・キンボールはこれらの宣教師の一人でした。彼と同僚はプレストン近郊のチャットバーンとダウンハムの町で大きな成功をおさめました。

イギリスのチャットバーンの修復した教会の陰には小さな池があり、ヒーバー・C・キンボールはそこで100~200人の新しい会員たちにバプテスマを施しました。その地域はそのときから変わっていないようです。今日の宣教師は先人たちを思い起こすために時々この遺跡を訪れます。

 

モルモンの歴史

これらの、また他のモルモンの歴史的な遺跡を訪れてわたしたちが学ぶことができる教訓は計り知れません。失敗であろうと、成功であろうと、過去から学ぶのはすばらしいことです。人々が信仰や神の名のもとにはらった犠牲を見るのは鼓舞されるものです。Mormon.orgにアクセスすると、モルモンが今日何を信じているか、またどのような生活をしているかが分かります。

 

 

この記事はもともとドリス・ホワイトによって書かれたものです。

Dwhiteについて

ドリス・ホワイトはオレゴン州出身で、英語学を専攻,編集学を副専攻としてブリガム・ヤング大学を卒業しました。イエス・キリストの福音について人々と語り合うのを喜びとしています。