現代の世界はデジタル化され、スピードが増しています。逆に言えば、これまで以上に人と繋がっているのに、孤独に陥りやすくもなっているということです。そのため、不安やうつという言葉がごく身近なものになっています。
実際に、自分自身や大切な人の人生で、悩み苦しむ重さを感じたことがあるでしょう。このような課題は現代特有のもので、過去の人々は同じような問題は経験しなかったのでしょうか。
聖書を開くと、そこに登場する人と今を生きる人間の本質はそれほど変わっていないことに気づきます。うつという言葉は古代の文書には登場しませんが、深い悲しみ、疲労、絶望といった感情ははっきりと描かれています。
聖書の中には、魂の恐れに直面した信仰ある男女の物語が記されています。その経験は偶然ではありません。悲しみを感じることは、霊的な弱さの証でも、神に見捨てられた証でもないと教えてくれます。
むしろその苦しく避けたいと思える時間は、最も助けを必要としている時に、どのように神様がわたしたちに関わってくれているのかを見つめ直すためのものです。また、希望を見いだす機会でもあります。この記事では、聖書の6人の登場人物から学びます。

エリヤ ― 聖書に見る「うつ」と神様の配慮
聖書に記された精神的・感情的な疲弊の1つの例は、預言者エリヤの物語です。列王記上18章には、彼がカルメル山でただ1人、バアルの預言者たちに立ち向かい、奇跡的に神様の力を得て大勝利したことが記されています。その時、エリヤは霊的にもっとも強い状態でした。
しかしその勝利の直後、敵対関係にあったイゼベル王妃から「必ず殺す」との脅しによってエリヤは崩れ落ちました。疲れ果て、恐れて荒野に逃げ、えにしだの木の下に座り、こう願いました。
主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。
列王記上19章4節
神様の答えは、その時エリヤが必要としていたのが愛と配慮であったことを示しています。神様はエリヤの信仰が欠如していたことを責めませんでした。「元気を出せ」と軽く言うこともありませんでした。
その代わりに、天使を送り、パンと水を与え、休むようにと優しく支えました。神様はまずエリヤの肉体的・感情的な必要を満たしたのです。
その後で、神様は静かな細い声でエリヤの心に語りかけ、歩むべき道を示しました。

ヨブ : 説明のつかない苦しみの重さ
ヨブの物語は、終わりのない理由も分からない痛みの象徴です。彼は子どもたち、財産、健康を一度に失いました。友人たちは慰めるどころか、空虚な理屈で非難しました。
ヨブの苦しみはとても激しく、自分の生まれた日を呪い、存在しなければよかったと願うほどでした(ヨブ記3章)。
ヨブ記は、痛みについて神様に正直であることが許されると教えています。ヨブは「大丈夫だ」と取り繕いませんでした。彼は葛藤し、問いかけ、心を神様にさらけ出しました。
ヨブの旅は「なぜ苦しむのか」の答えを得ることではなく、その中で神様を見いだすことにありました。
この物語は、うつが理屈の通じない重荷のように感じられることを理解させてくれます。そして、最も正しい人でさえ絶望に至ることがあると示しています。
最終的にヨブの癒しは、理由の説明からではなく、神様との新しく深い関係から訪れました。

ダビデ : 詩篇に表された心の痛み
神様の心にかなう人と呼ばれた王ダビデも、深い苦悩の時期を経験しました。迫害、罪、家族の死が彼を苦しめました。
詩篇38篇には次のように記されています。
わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです。… わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい篇に隠れることはありません。 わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。
この言葉は、ダビデの罪悪感、悲しみ、そして同時に神様の赦しを求める心を表しています。

ヨナ: 主の憐れみを受け入れられなかった苦悩
ヨナの物語は、心理的に最も複雑かもしれません。彼の苦悩はエレミヤのような迫害でも、ダビデのような罪でもなく、神様の無限の憐れみを受け入れられない心から来ていました。
イスラエルの敵であり、残虐なアッシリアの首都ニネベに、神様に命じられて福音を宣べ伝えに行きました。しかし、その人々に悔い改めを説く使命は屈辱的なものでした。そのため、一度はその使命から逃げました。
逃げた先で船の上で嵐に合い、自分の不従順が自分と周りの人を苦しめていると悩みました。再び神様から受けた使命に従ってニネべへ行き教えを説いたのですが、人々が悔い改め、彼らが神様に赦されたとき、ヨナの心には怒りと葛藤が満たされ、彼の世界は崩れ落ちました。
どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです。
ヨナ書4章3節
これは単なる嘆きではなく、ヨナの信仰そのものが揺らいだことを表す言葉でした。ヨナは、悪者は罰せられるべきだという自分の正義感が打ち砕かれたと感じました。
ヨナの苦悩は、わたしたちが自分の頑なさや誇り、赦せない心から苦しむことがあることを教えています。

エレミヤ : 嘆きの預言者
「嘆きの預言者」と呼ばれるエレミヤもまた、うつに似た経験をしました。神様の言葉を人々に伝え預言し、裁きを告げたために多くの人に拒絶され、数々の迫害を受け苦しみました。
わたしの生まれた日はのろわれよ。母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな。
エレミヤ書20章14節
エレミヤは自身の使命の重みと、人々からの拒絶の痛みによって、深い絶望を感じていました。

救い主はあなたの痛みをご存じである
しかし最大の模範は救い主です。ゲツセマネの園でイエス・キリストは想像を絶する苦悩を味わいました。
わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。
マタイによる福音書 26章38節
その苦しみはあまりにも大きく、血の汗を流しました。神様の御子であっても、絶望の極みに達したのです。
モルモン書の預言者アルマは、救い主が罪だけでなくすべての人が経験するすべての痛みと悩み、誘惑を背負ったと証言しています(アルマ書7章11–12節)。
それは、わたしたちがうつの暗闇にいるとき、単に知識としてではなく、実際に経験したことがある方を求めて頼ることができるようにするためです。

助けを求める: あなたは一人ではない
自分が1人ではないと知ることは大きな慰めです。しかし福音は、信仰に基づいた行動と結びつけて癒しを求めるよう勧めています。
祈り、聖典の学び、キリストへの信頼は霊的な柱です。ですが、癒しはしばしば神様が備えられたこの世での手段を通して訪れます。癒しは家族、友人、教会の指導者、そして専門家の助けからも得られるのです。
ジェフリー・R・ホランド長老はこう教えています。
皆さんが虫垂炎になれば、神は当然、神権の祝福だけでなく、利用できる最高の医療を受けることを皆さんに期待されます。情緒障がいについても同じです。
うつのために医師や治療を受けることは信仰が弱いからではなく、むしろ神様が備えてくださった助けを信頼していると表す信仰の行為なのです。

よくある質問
1. うつは罪や信仰の欠如ですか?
いいえ。エリヤやヨブの例のように、深い苦しみは誰にでも訪れます。聖書はそれを人間の経験の一部として描いており、霊的な失敗として記したのではありません。
2. うつのときに慰めを与える聖句は?
- 詩篇23篇
- 詩篇34章18節
- マタイによる福音書11章28–30節
- ピリピ人への手紙4章13節
- イザヤ書41章10節
- イザヤ書55章8–9節
- ヨシュア記1章9節
- 箴言3章5–6節
- コリント人への第二の手紙1章3–4節
- ペテロの第一の手紙5章6–7節
- アルマ書7章11–12節(モルモン書)
- エテル書12章27節(モルモン書)
- ニーファイ第2書4章、26章24–25節(モルモン書)
- モーサヤ署4章9節(モルモン書)
- 教義と聖約68章6節
加えて:
「破れた器のように」ジェフリー・R・ホランド
「曇りの時も腫れの時も、主よ、われと共におりたまえ」レイナ・I・アブルト
「心の健康」エリック・W・コピシュカ
「キリスト ― 闇の中に輝く光」シャロン・ユーバンク
「全体を見渡すレンズで神の家族を見る」タマラ・W・ルニア
3. 祈りだけでうつは治りますか?
祈りは神様とのつながりと力の源です。しかし、神様は医師や治療者といった癒しの手段も与えてくださいました。信仰と専門的な治療を結び合わせることは、知恵と自分への思いやりです。
この記事は霊的な励ましと情報を目的としたものであり、専門的な診断や治療の代わりにはなりません。もしうつに苦しんでいるなら、医師や専門家に助けを求めてください。
参照:maisfe.org