私の生活の中にたくさん起こりましから、だれの生活にも起こっていると思いますが、自分が感じているようなことを、またその理由を理解することはだれにもできないと思うことです。十代の人たちの間でよく耳にすることですが、「だれも私のことを理解できない!」容易に自分の状況が特別なのだと感じてしまいます。自分の置かれた状態は違っているから、地上の他の人は本当に、現実的に私に共感することはできないと思ってしまいます。
あらゆる現実において、このことは本当ではないでしょう。私の状況はある面においては特殊でしょうが、卒業論文に苦しんでいるは私が初めではないでしょうし、デートについて混乱しているのも私が初めてではないはずです。友だちや家族の一員で似たような状況に直面した人たちがいるでしょうし、私の気持を共感できるでしょう。しかし、事柄、生活環境、人生観が特殊な状況で絡み合っているという点で、ひとりの人の状況は他の人には理解することができないという可能性があることも確かです。末日聖徒イエス・キリスト教会、時々モルモン教会と呼ばれる、の会員として、私はひとりの方は私たちのことを理解して下さると信じています。
私たちの救い主イエス・キリスト
イエス・キリストはこの世に私たちの救い主になるために生まれてきました。それが計画されていたのですが、キリストは地上に生まれ、完全な人として育ち、天の父の計画について学び、教え、それから、私たちを罪や死から救うために贖いの犠牲を捧げられることになっていました。それについてよく考えてみると、とても難しい役目であることが分かります。しかし、贖いの一部として、またイエスの地上における務めとして、主は私たちの一人一人を完璧に、かつ完全に理解する能力があるのです。
イエス・キリストが地上におられたとき、その当時のユダヤの地の他の人たちとまったく同じような生活を経験なさいました。日々の生活で起こる試練やチャレンジから保護されてはいませんでした。その地にあった病気や貧困の影響下にありました。このことの一つの理由は、キリストが私たちのことや私たちの試練やチャレンジを、天の父の子供たちを、この世で救うことになっていた人々のことを十分に理解するためでした。ヘンリー・B・アイリング管長は、イエス・キリスト教会の使徒であり、指導者ですが、次のように語っています。「主は私たちをどのように養ったらよいのか啓示によって知ることができたでしょうが、しかし、主は御自分の個人的な経験により学ぶことを選ばれたのです。」(「逆境」、エンサイン、2009年5月、24ページ)死すべき生活を経験したことから、イエス・キリストは私たちが日常生活のレベルで試練や誘惑を経験することを理解なさるのです。主は私たちを個人としてご存知です。そして私たちが必要な時に、本当に共感し慰めることができるのです。イザヤが述べているように、「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」(イザや53:4)のです。
どのようにそれが起こるのか
さて、ある人々は次のように言うかもしれません。「何千年も前に生きていた人が、どのように私が今抱えている状況を理解できるでしょうか。」彼らは「他の人たちがもっと大きくて難しいチャレンジに直面しているのに、私の生活は神にとって大切でしょうか」と考えるかもしれません。また、「ひとりの人がこの世のすべての人のことを理解することは不可能です!」と考えるかもしれません。これらの質問はキリストが私たちのことを個人的に理解する手段に関することです。しかし、私には、それをどのようになさるのかということは、実際にそうして下さることほど大事ではありません。ある人々は私の比較的単純な見方を愚かであるとか情報不足とか考えが足りないと言うかもしれませんが、私はそれを信仰と呼びます。
私はこれらの手段についての質問に答えることはできません。ある人々はそれを試みたことがあるかもしれませんが、その答えは決して完結したものではないでしょう。しかし、贖いの実行手段の仕組みが分かることは大切ではありません。何らかの方法で、キリストは御自分に私たちが背負うことになるはずのすべての悲しみ、悔い、恐れ、痛みを受けられて贖いの業を完了し、私たちの苦しみを完全に理解することができたという点を理解することの方がもっと大切です。キリストが私たちを助けて試練や弱点やチャレンジを乗り越えられるようにする力をお持ちであるということを理解することの方がずっと大切です。贖いは天の父の特定の子供たちだけに与えられたのではありません。それは永遠の完結した犠牲でした。それは天の父のすべての子供たちが用いて理解するように意図されていました。贖いを通して、あらゆる生活の不公平な部分が矯正され、私たちの罪は許され、私たちの弱さは克服することができるのです。そして、私たちは完成された者になり、天の父やイエス・キリストのように完全な者になることができるのです。
私たちは決してひとりではありません
ジェフリー・R・ホランド長老は、イエス・キリスト教会の使徒であり指導者ですが、2009年に「だれも主と共にいなかった」という題のお話をなさっています。その中で、彼はイエスの地上での最後の時間について語っていて、主の私たち一人一人に対する驚くべき犠牲の意味することを説明しています。
「このイースターの時期に得られる大いなる慰めの一つは、イエスがそのような長い、孤独な行程をまったくひとりで歩まれたということです。私たちはそうしなくてもよいのです。主の孤独な旅は、私たちのほんのわずかに似ている旅に大いなるものをもたらして下さいました。すなわち、天の父の憐れみ深い助け、愛する御子が裏切ることのなく寄り添って下さること、聖霊の申し分のない賜物、天の使いたち、幕の両側にいる家族の人たち、預言者や使徒、先生、指導者、友だちです。これらのすべての者、それ以上のもが私たちのこの世での旅路に付き添ってくれます。それはイエス・キリストの贖いがあるからです。また福音が回復されたからです。カルバリーの頂上からトランペットのようにならされたのは、たとえ私たちが、時々自分がそうであると感じるかもしれませんが、私たちがひとりだけ残されたり、助けなしでいることがないという真理です。」(ホランド、「だれも主と共にいなかった」、エンサイン、2009年5月)
自分がひとりであり、さまよい、つまずいていると感じることについて、イエス・キリストはそこにいて下さり、理解して下さるのです。贖いをなさったことによって、私たちが感じていることをご存知で、どのようにしたら私たちを慰めることができるのかをご存知です。私は天の父に祈ったとき、絶望と孤独の中で何度もこのすばらしい慰めを感じてきました。イエス・キリストは私たちを招いておられます。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、私のくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28−30)
この記事はmeganによって書かれました。メーガンはAboutMormonsに10の投稿をしています。彼女はユタで生まれ育ちました。そのほとんどをハリケーンという小さな町で過ごしました。今、アイダホ州のレックスバークにあるBYUアイダホ大学で英語学を勉強しています。そこで勉強することはすばらしい経験で、偉大な文学について学び、自分の英作文の技術を磨き、とりわけ多くの新しい人々と会えることが好きです。メーガンは音楽が好きで、とりわけ演奏することが好きです。オルガンとピアノを演奏します。彼女はまた、アメリカの手話言語に非常に興味を持っていて、それを取り巻く文化についても興味があります。生まれた時から末日聖徒イエス・キリスト教会の会員で、この伝統と福音とともに育ってきたことを愛しています。