Planted』という本は、自分の信仰に疑問を抱く教会員に役立つ洞察力を与えてくれます。この本の著者であり出版者はパトリック・メイソンです。 メイソンとモーガン・ジョーンズは、わたしたちや他の誰かが教会について疑問を抱くときに何ができるかを、その本に基づいて話し合いました。

 

モーガン・ジョーンズ:あなたの本の中で、大好きな箇所があります。「信じなさいという招きは、わたしたちの疑念を否定しなければいけないということではありません。むしろ、神の光の一部に場所を与えることです。その一部が何であれ、どんな形をしていたとしても、わたしたちの中に植え付けて育てていけます」と書かれているところです。わたしたちが混乱したりするときに、自分の原点に立ちかえるという考え方がとてもいいと思います。それについての引用文があります。「あなたが持っている基礎にしっかり掴まっていてください。」では、わたしたちが自分の疑問に向き合うときに、どのようにしっかり掴まっていればいいのでしょうか?

 

パトリック・メイソン:そうですね、これは人々が抱える最大の悩みの1つです。 なぜなら、人が疑問を抱き始めるときに、わたしたちはそのことに没頭する傾向があるからです。そして、何か新しく再形成されたり、確信していたことについての疑問話を聞くと、それについて深く掘り下げて考えたくなるのは、人間の性質上自然なことだと思います。しかし、神が望まれるのは、これまでの経験をわたしたちが忘れないようにするということだと思います。「覚えておく」ことについて、聖典や特にモルモン書の中で繰り返されています。人生は圧倒されることが多すぎて、神がわたしたちの生活に与えてくださった祝福や、御霊がわたしたちの心に触れたときの経験を忘れがちになることがあります。わたしたちは、そのようなことについて見直し、それらを新しい背景や新しい構成にはめ込む必要があるかもしれません。

自分が宣教師だった時に御霊を感じると、一方的な考え方をする傾向があったかもしれません。そして今は、異なる考え方をしてみる必要があるのかもしれません。それでいいんです。大丈夫です。ただ神がわたしたちに長年示してくださった多くの憐れみを忘れてはいけません。それが信じなさいという招きだと思います。神がしてくださったことを意図して覚えておくことなのです。すべてを脇にやって、「質問したくありません。疑問などを抱きたくありません」と無理に言うことではないのです。耳をふさいで何も聞こえないふりをすることではありません。信じなさいという招きはそういうことではないのです。その招きは、神がしてくださったことを覚えておくことであり、小さな種を植えて育てることだと思います。わたしたちが他のことをしたり、疑問を抱いている間に、種は簡単に死んでしまいます。その小さな種の世話を怠ってはいけません。見捨てるなど、もったいないことです。

 

モーガン・ジョーンズ:そうですね。ところで本の中で他に好きな箇所があります。信仰の危機を経験することは、霊的な理解を得るために必須でもなければ、万能の手段でもないと話しているところです。「疑わない信仰を持つことは稀です。多くの人々にとって、信仰は働かせることであり、多くの場合勤勉に働くことです。山あり谷ありの旅路です」と書かれています。そして、具体的に末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰と愛を比較しています。これはなんとも見事に構成されていると思いました。そこで、もう一度その見解をお話しいただけませんか?

 

パトリック・メイソン:はい、では繰り返して言いますが、すべての人が信仰の危機を経験する必要があるとは思いません。それは天国に戻るために必要なことではありません。教会の中で、深刻な疑問の谷を経験しない人が多くいるかもしれません。もちろん、彼らには疑問を抱いたり、意味が分からなかったりすることはあるかもしれませんが、それが存在の危機へと導くことはないでしょう。それでもいいんです。まったく問題ありません。しかし、信仰の危機を感じている人に向かって「わたしには信仰の危機などないのに、なぜあなたはそんなことに陥るのですか?乗り越えてください」などと威張りちらすべきではないと思います。 それは愛ではありませんし、思いやりでもありません。多くの人が危機を経験するわけではないですから。わたしは様々な場所で色々な人々と話してきました。

特に信仰の危機を経験したことのない両親が、ある日突然自分の子供たちが信仰の危機に直面するのを目の当たりにすることがあります。そしてその最大のチャレンジは、子供たちの疑問がどこからわいてくるのか、そして彼らはどのような経験をしているのかを理解することだと思います。しばしば教会で、わたしたちは疑問を抱くことを罪と急いで決めつけてしまうことがあると思います。「あぁ、あなたは教会について疑問があるのですね。それはあなたの悪い癖だよ」と言っているようなものです。 わたしたちの頭はすぐにこのような考えに向かいます。そしてそれが事実のときもあります。

時に生活の繰り返しが信仰を弱まらせることがあるかもしれません。それは確かに一理ありますが、多くの場合そうではありません。愛に関わる問題である場合、その愛が人間関係の中心にあるべきなのです。わたしたちは人を裁くはるか以前に、人を愛するように招かれています。モーサヤ書のバプテスマの聖約について書かれた聖句が大好きです。わたしたちは「悲しむ者とともに悲しみ、慰めの要る者を慰め」、そしてイエスの証人になります。優先順位の意図があるかどうかは分かりませんが、モーサヤ書18章にはこの順序で書かれています。

聖約の最初の部分は悲しむことであり、深い悲しみにある人に慰めを与えることです。その人はガンを患っているかもしれませんし、信仰の危機の真っ只中にいるのかもしれません。 そして、わたしたちはいつでも、どのようなことについても、どのような所にいても、イエスの証をすると書かれています。証をするタイミングは、いつでも見つけることができるでしょう。わたしたちの周りにいる人々はわたしたちが持つ信条を知っていますが、ときに彼らは「あの人たちはわたしたちのことをまだ愛しているのでしょうか?わたしがとても苦しい経験をしていても、彼らはわたしを愛してくれているのでしょうか?」と疑問に感じることも時にあるのではないかと思います。

 

この記事はもともとLDS Livingによって書かれ、ldsliving.comに”All In Podcast:Seeking To Understand Loved Ones Experiencing Faith-Related Doubts”の題名で投稿されました。