個人の祈り
個人の祈りを通して神に話しかけることができ、またその権利があるということは、高尚な祝福です。実に神は、コミュニケーションが絶えず続くよう、わたしたちに常に祈ることを勧めています。すべての宗教が個人的な祈りを信じているわけではありません。多くの信仰では、祈りは書かれているものを読んだり、覚えたり、復唱したりします。そのような大きな本は、心からの祈りではありません。神はわたしたちの父であり、最も日常的な関心事について話すことを望まれています。
まことに、神の憐れみを叫び求めなさい。なぜなら、神は人を救う力を備えておられるからである。まことに、へりくだって、神に祈り続けなさい。牧場にいるときには、まことに、すべての家畜の群れについて神に叫び求めなさい。家にいるときには、まことに、あなたがたの、家のすべての者について、朝も昼も晩も神に叫び求めなさい。
まことに、敵の力を防ぐことができるように、神に叫び求めなさい。まことに、あらゆる義の敵である悪魔を防ぐことができるように、神に叫び求めなさい。あなたがたの畑の収穫が豊かであるように、作物について神に叫び求めなさい。
しかし、これだけではない。あなたがたは、自分の部屋でも、人目に触れない場所でも、荒れ野でも、あなたがたの心を注ぎ出さなければならない。また、声に出して主に叫び求めないときでも、あなたがたの幸いと、あなたがたの周りの人々の幸いを気遣う気持ちを心に満たし、それが絶えず主への祈りになるようにしなさい。(モルモン書、アルマ34:18-27)
個人的な啓示
個人的な啓示が与えられます。今までも常にそうでしたし、これからも常にそうです。神は、子供たちに語りかけられます。神は、子供たちに成長して自分自身のようになって欲しい、近くに来て欲しい、と励ましています。すべての人類の大発明と価値のあるひらめきと新しいアイディアの背後には、神の存在があります。しかし神は、突然ひらめく良い考え以上の方法で語りかけられます。聖霊を通して、わたしたちは神の言葉を心に、聞くというようも、感じることができるのです。
教会員がバプテスマを受けると、按手礼により、聖霊の賜物を受けるという祝福を得ます。聖霊の賜物は、その人が聖霊が宿るにふさわしくある限り、常に御霊が共にあるというものです。聖霊は共にある人に、促し、警告し、導き、証し、ひらめかせ、慰めます。ほとんどの教会員は、何度も神の言葉を聞いていると思います。
教会員は特に、与えられた「管理の責務」について個人的な啓示を受けるという特権があります。管理の責務とは、与えられた責任の範囲です。父親は家族の長として、妻や子供への接し方の啓示を受けるかもしれません。休暇や教会の召しを手助けするための個人的な啓示を受けるかもしれません。(イエス・キリスト教会は一般信徒の聖職者を置いていて、教会を運営するためにすべての会員は「召し」を果たします。)
生ける預言者と十二使徒は、権能と力を神からそのために与えられているので、教会とさらには世界に対する啓示を受けます。直接の啓示が、神の預言者により導かれる唯一のキリスト教であるイエス・キリスト教会を導いています。教義は変わりませんが、現代に即したプログラムが必要なので、方策は変わります。教会のとても成功している新たな方策は啓示により与えられました。LDS福祉プログラムや、神殿建設(地上すべてに広がり、末日聖徒が参入しやすくするため)、永続教育資金、人種に関係なくすべてのふさわしい男性に神権を与えること、最近では、宣教師の年齢の引き下げなどです。これらの新しいことの成功は、天からの直接の啓示によるものです。
開かれた聖典
常に神からの啓示が男女に与えられているので、神の代理人は時々、それらの啓示を記録するように命じられてきました。聖書はそのような記録ですが、一部が失われています。モルモン書と高価な真珠は、古代の預言者による古代の記録の翻訳です。教義と聖約は、現代の啓示を集めたものです。モルモン書の民の記録の多くは、ふさわしくない世の中には公表されず、神の子供たちがふさわしくなるまで出てこないと言われています。失われた十氏族はキリストが来る700年前に、人類から隠されました。彼らには、聖文を記録した預言者がいました。聖書は、彼らが戻ってくると約束しています。彼らの聖文は、末日聖徒イエス・キリスト教会の開かれた聖典の一部となるでしょう。
見よ、わたしがユダヤ人に語れば、彼らはそれを書き記し、ニーファイ人に語れば、彼らはそれを書き記す。また、わたしが連れ出したイスラエルの家のほかの部族に語れば、彼らもそれを書き記す。さらにわたしが地のすべての国民に語れば、彼らはそれを書き記す。
そしてユダヤ人はニーファイ人の言葉を得て、ニーファイ人はユダヤ人の言葉を得る。また、ニーファイ人とユダヤ人は、イスラエルの行方の知れない部族の言葉を得て、イスラエルの行方の知れない部族は、ニーファイ人とユダヤ人の言葉を得る。(2ニーファイ29:12,13)
わたしの業は終わりがないからである。わたしの言葉もそうである。それらは決して耐えることがないからである。(モーセ1:4)
主は、わたしたちから聞くことを喜ばれます。わたしたちに答えることも喜ばれます。悔い改めることができます。祈りによって、主に近づくことができます。導きと指示に従って、求められることは何でもすると約束することができます。天は開かれています。ただ見上げる必要があるのです。