mormonwomenによる掲載、2013年3月15日

BYUの学生による手紙と聖典についての振り返りシリーズへの投稿の一つです。この手紙はルークという名の学生によって書かれました。

親愛なるマリリンおばさん、

そちらでは何事もうまくいっているように希望しています。おばさんのことを良く考え、主が引き続き祝福と導きをおばさんの生活に与えてくださるようにと望んでいます。私はおばさんが教会に関心を持ってくださっていることにも感謝しています。それはすばらしいことで、また正しいことだと思います。主が与えてくださる指針や導きがあって、私の生活は祝福されています。私はとても平安ですが主の約束が真実であることを知っているからです。必要なときいつもいてくださり、私たちの必要なこと、要求、痛みをご存知で、主が唯一望んでおられるのは私たちがこの世で幸せになることであると知っています。奇跡は本当に起こり、福音の中で受ける力は疑いもなく一貫して続く奇跡で、決して途絶えることがありません。1つお伝えしたいことがあるのですが、先週モルモン書を読んでいて力強い証を得ました。

モルモン書のヒラマン書9章を読んでいた時ですが、文脈から2つのことの対比に強い印象を受けました。イエス・キリストに対する信仰とサタンとその力に対する信仰の違いです。モルモン書のこの部分では非常に興味深い出来事が起こっています。ニーファイの民は非常に邪悪になったため、とうとう「大さばきつかさ」(中央政府の指導者の一人)出会ったニーファイがその役職を投げ打って福音を宣べるために出かけなければならないほどでした。 しばらく福音を教えることに時間を費やし、ある地域では若干の成功も治めましたが、彼が分かったことは伝えるように与えられたメッセージを多くの人は拒否するということでした。このような難しい試練の時に、ニーファイは成功できるように祈りましたが、ちょうど、たまたま祈っていた時に一群の人々が集まって来て彼の祈るのを見ていました。私はこの話が好きですが、それは主がニーファイを本当に喜ばせるにはどうしたらいいかと考え、彼の願いに応えて、福音を伝える機会をすぐにもうけられたと想像できるからです。ニーファイは信じられないような優れた人ですが、早速その機会を捉え、彼らに教え始めます。それから彼らに彼らがしようとしている決意の結末について警告したのです。このとき彼は彼らの「大さばきつかさ」が殺されたところであると人々に告げるように導かれます。想像できると思いますが、聞いていた人には大変ショックなことで、そのうちの何人かはそれが本当か、また彼が本当の預言者かどうかチェックしに行きました。彼らが大変驚いたことに、大さばきつかさは殺されていました。

本題に少し入りますが、ニーファイが真実を述べ伝えることに腹を立てた人々は、ニーファイがそもそも大さばきつかさの殺人を解き明かすことができたのはそれを計画した張本人であるからだと断定して、ニーファイを告訴しようとします。私ができる唯一のことは神が霊感して言わせられたことを告げたことで突然縛られ法廷に連れ出されるはめになったニーファイの思いを想像してみることだけです。多分私たちの多くがこの時点にくると霊感されたことを実行に移すことは果たして正しいことなのだろうかと疑問視するかもしれません。しかし、私の思うにニーファイはそのような思惑を超えた高いレベルの信仰をもっていて、主が彼にするように望まれることは何でも受け入れて行う準備ができていたのでしょう。連れて行かれ、告訴され、あるいは誤った裁判を受けようとニーファイはその状況に甘んじていたことでしょう。話を続けますと、告訴された後、ニーファイは彼らに何が実際起こったのかを詳細に伝えます。彼は大裁きつかさの兄弟がその殺人を行ったこと,次のことを行えば彼の言ったことが真実であるかどうかが分かると告げたのです。最初に、ニーファイは彼らにその兄弟がニーファイと共謀したかどうか尋ねるように告げました。するとその兄弟は「そうではない」と答えるだろうとも告げました。次に彼が自分の兄弟である大さばきつかさを自ら殺害したのかと尋ねると、驚いた振りをし、しかし恐れを抱くこと、そのとき彼の衣服を調べると、そこに血が付いていることを発見することを告げました。そこで彼が殺人者だと詰め寄ると、殺人の事実を告白しニーファイはそのことについて神が明らかにされる以外には知るすべがないことを告げるだろうとニーファイは預言したのです。そして、それらの一連のことはニーファイの預言通りに全て起こりました。

この話を読んで私が驚くことは、本質的な違いがあるとはいえ、ニーファイと大さばきつかさの兄弟セアンタムの信仰を対比させることができることです。ニーファイが告発されていたとき、彼には信仰があり事態の成り行きについて思い悩むことは何もありませんでした。彼は主を信頼し、主が道を備えてくださることを知っていました。一方、セアンタムの場合は、自分は見つからないだろうという信仰があったと思います。事実、サタンは彼の心にささやきかけ、共に悪事を企て殺人を誘い、決して見つかることはないとそそのかしていたと思います。セアンタムは自分が気づかれずにその罪から逃れられるという確信がなかったなら、決して殺人を実行に移すことはなかったでしょう。しかし、彼の信仰は失敗に終わる運命でした。

私は常に主を信頼できると知っています。私は、「主がその羊を見守っておられる」ことを知っています。セアンタムの経験とは違って、恐れる必要はありません。主の側にいる時、イスラエル人にとってそうであったように、主が「私たちのために戦われる」と約束されているからです。私が真剣に願っていることは私たちが皆このような決意と信仰をいつも持ち続けることです。

おばさんに最前のことを願っています。すぐまた話せることを希望しています。

愛を込めて、

ルーク

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