モルモン教において、キリストの光とは文字通り、神からその御子イエス・キリストを通してもたらされる神聖なエネルギー,力,影響のことを指しています。キリストの光は時々,個人の内部の声として,何かが正しいとか間違っていることを告げる働きとして感じられ,良心とも呼ばれます。それはその個人の中にあるもので,真理を聞く時にそれがそうであると認識する力です。キリストの光はこの世に住んだあらゆる人、これから住む人にも与えられるものです。それは愛する天の父が,ご自分の霊の子供たちに与える賜物です。聖典は次のように教えています。「御霊は世に来るすべての人に光を与え,また御霊はその声を聞く全世界のすべての人を照らす。(教義と聖約84:46)

キリストの光が時々聖霊(肉体を持たない霊のお方で、正しい道を人々に教える)と勘違いされます。聖霊は神会の第3番目の御方で,霊の存在で,骨肉はありません。キリストの光は人々が良くなるように影響し,彼らが聖霊を受けられるように備えます。しかし,聖霊または聖なる御霊は聖なる御方であるのに対し,キリストの光はそのような方ではなく,力です。

目次

1.キリストの光とは何か?

2.だれでもキリストの光を与えられて生まれて来る

3.「啓発への入り口」

4.キリストの光 対 聖霊

キリストの光とは何か?

では,キリストの光とは何なのでしょうか?聖書には「キリストの光」という表現は現れませんが,そのことを適応する原則は頻繁に言及されています。いつもではありませんが,時々同義語として使われる表現に,「主の御霊」とか「命の光」があります。例えば,ヨハネ8:12でイエスはおっしゃいます。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は,やみのうちを歩くことがなく,命の光をもつであろう。」聖書辞典(Bible Dictionary : 英語のみ)はそれをさらに説明しています。

キリストの光はその言葉が含意しているように,啓発,知識であり、高め,高貴にし,忍耐をもたせる影響であり,イエス・キリストより全人類に与えられる。例えば,キリストは「世に来るすべての人を照らすまことの光」(教義と聖約93:2、ヨハネの1:9も参照)キリストの光は「広大な空間」を満たし、この光によってキリストは「万物の中にあり,万物を貫いてあ〔る〕」ことができる。「万物に命を与え」,そして「万物が治められる律法」である。それはまた「理解を活気づける」(教義と聖約88:6−13,41)。このようにして,キリストの光は人の良心と関係し,人に善悪の区別をつけさせる。(モロナイ7:12−19)

だれでもキリストの光を与えられて生まれて来る

だれでもこの世に来る時にはキリストの光を与えられて生まれます。このキリストの光によって,人々は善悪を区別します。しかし,自分の行動によって,この光を追い出すこともできます。(ボイド・K・パッカー会長 リアホナ2013年5月号「わたしが知っていること」より)十二使徒定員会(大管長会と共に教会全体を統轄する組織)の会長であるボイド・K・パッカー会長は次のように教えています。

「あらゆる国家,宗教,皮膚の色の男女子供たちのいずれも,どこに住んでいようと,何を信じようと,何をしていようと,だれもが決して消滅することがないキリストの光をもっています。この点で,すべての人は等しく造られています。キリストの光がだれにも与えられているということが神が人を偏り見られないことの証拠です(教義と聖約1:35)。神はキリストの光を授けることにおいて,すべての人を平等に扱われます。。。。。このうちなる光は警告し,守り,案内することができます。しかし,これは醜いこと,ふさわしくないこと,邪悪なこと,不道徳なこと,利己的なことによって追い出されます。(ボイド・K・パッカー会長 リアホナ2005年4月号「キリストの光」)

啓発への入り口」

キリストの光はたとえによって最もよく説明できるでしょう。大管長会の第2顧問であるディーター・F・ウークトドルフ管長は,デンマークの画家であるヨハン・ベンシンによる「啓発への入り口」という自分のオフィスに飾られている絵について語りました。

「その絵は開けてあるドアから光が漏れている暗い部屋を描いています。私にとって興味深いことに,ドアから入って来る光がその部屋全体を明るくしていないことです。ドアのすぐ前だけが明るくなっているのです。私にとって,この絵の中の暗闇と明かりで人生が象徴されていると思われます。この世に生きる人間として,まるで暗闇に囲まれているように感じることが時々あります。愛する者を失ったり,子供が道を踏み外してしまったり,心配になる医師の診断を受けたり,雇用の問題があったり,疑いや恐怖で心が重くなっているかもしれません。あるいは孤独でだれからも愛されていないと感じているかもしれません。しかし,現在の状況で,自分が道に迷ったと感じていても,神は希望の光を約束しておられます。神はわたしたちの前にある道を照らし,暗闇から逃れる方法を示してくださると約束なさっています。」(ディーター・F・ウークトドルフ管長 リアホナ2013年5月号「神の光による希望」

この光は道を照らし,神の御もとに戻れるように人類を案内してくれます。これはキリストの光で,キリストこそ模範を示してくれて,天の父のみもとに戻れるように道を示してくださったのです。それは啓発への入り口なのです。モルモン書はイエス・キリストについてのもう一つの証で,聖書の対になる聖典ですが,アメリカ大陸の古代の民に神がなさったことが記録されています。その中で預言者モロナイは次のように書いています。

「善悪をわきまえることができるように、すべての人にキリストの御霊が与えられているからである。さて、その判断の方法をあなたがたに教えよう。善を行なうように誘い,またキリストを信じるように勧めるものはすべて,キリストの力と賜物によって送り出されているのである。。。。。しかし,悪を行なうように,キリストを信じないように,キリストを否定するように,神に仕えないようにと人に説き勧めるものは何であろうと,それは悪魔から出ていることをあなたがたは完全に理解してわきまえることができる。悪魔はこのように。。。。。だれにも善を行なうように説き勧めない。」(モロナイ書7:16−17)

そのように,聖典はキリストの光と暗闇の力あるいは悪魔を見分ける方法を教えています。これが啓発の入り口であると言うのは,それがより大きな光と,神の知識に導いてくれるからです。それがわたしたちの終わりではありません。ただ始まりに過ぎないのです。

キリストの光 対 

ウークトドルフ管長の絵が説明しているように,キリストの光は道を照らします。しかし神の啓発は聖霊の力を通してのみ起こります。聖霊は救い主イエス・キリストについて,またその福音の真実性について証します。イエス・キリスト教会の大管長会の第一顧問であるヘンリー・B・アイリング管長はキリストの光と聖霊との違いについて教えています。

「天の父の子供のすべては,この世に生まれて来る時,無条件の賜物として,キリストの光を与えられます。それを感じたことがあるでしょう。善悪の違いについての感覚です。また真実と虚偽の違いについても告げてくれます。この世の旅が始まった時からあなたの内部に存在していました。。。。。〔バプテスマの後〕教会の会員として確認される時,聖霊を伴侶として授かるという特権をいただきます。聖霊は真実を認識し,主イエス・キリストに従い,愛し、この世が終わってから神の御もとに戻る方法を見いだせるように助けてくれます。」(ヘンリー・B・アイリング管長 リアホナ2008年5月号「光の中を歩む」)

聖霊,あるいは聖なる御霊は2つの方法で力を表されます。聖霊の力と聖霊の賜物です。イエス・キリストの使徒であるデビッド・A・ベドナー長老は次のように教えました。

「聖霊は地上の人々に2つの方法で現れます。一つ目はその影響力で,もう一つは聖霊の賜物です。その力はバプテスマの前にも感じることが可能ですが,イエス・キリストがわたしたちの救い主であり贖い主であるという確信を得ることです。聖霊の影響力のもとで,真剣に求道することは,救い主の福音,モルモン書,回復が現実に起こったこと,ジョセフ・スミスの預言者としての召しが真実であると確信することが可能となります。聖霊の賜物は正式に受けたバプテスマとメルキゼデク神権を持つ人たちの按手を受けた後に初めて授けられます。」(デビッド・A・べドナー長老 リアホナ2010年11月号「聖霊を受けなさい」)

キリストの光と聖霊は共に働きます。イエス・キリストの使徒であるパッカー長老は次のように教えました。

「すべての人はキリストの光をもって生まれます。それは導きを与える影響力で,人が善悪の区別ができるようにさせてくれます。その光をどのように扱うか,その促しにどのように反応して正しい生活をするかは,この世に生きる人の試しです。。。。。わたしたちのだれもが聖霊の霊感や促しに反応できる状態にとどまっていなければなりません。主はわたしたちに促し,導き,教え,警告するためにわたしたちの精神に純粋な知性を注ぐ方法をお持ちです。神の子供の一人一人は知らなければならないことを瞬間的に知ることができます。霊感や啓示を受けたり,対応する方法を学んでください。」(ボイド・K・パッカー会長 リアホナ2013年5月号「わたしが知っている事柄」)