モルモン教ではパラダイスが霊界の一部で、この世を去って復活を待っている義人たちの霊がいる所であると教えられています。そこは平安と幸福の状態です。 [1]

パラダイスのことは神のその子供たちのために創られた偉大な計画という文脈で最もよく理解出来ます。全人類は父なる神の霊の子供です。地球に来る前に、天の父の子供たちは神と共に天で住んでいました。イエス・キリスト教会では、この状態を前世とか、この世の前の存在と呼ばれています。地球に来るすべての人は骨肉の身体を与えられます。

この世の生活は試しの世で、人々が神に対して、神に従いその戒めを守ることを証明するためのときです。天の父は肉体を持つ存在として、霊の子供たちが罪を犯すことをご存知でした。そして、いかなる汚れた者も神の御前で住むことができません。ですから、神はその独り子イエス・キリストを送って、わたしたちが神の御もとに戻ることができるように贖いをするようになさいました。[2]人が死ぬと、その霊と肉体は別々になります。霊は霊界に行き、肉体は墓に入ります。これは肉体の死です。かつて生きていた人の肉体は、やがて復活と呼ばれる状態で、霊と一緒になります。これらのことすべてが可能になるのは、イエス・キリストの贖いの犠牲によるのです。死と復活の間に、それぞれの霊は2つの場所の1つに行きます。パラダイスか霊の囚獄です。[2]パラダイスまたは霊の囚獄にいる間は一時的であることを覚えておくことが大切です。そこではまだ最後の審判は起こっていません。

 

目次

  1. パラダイスとは何か?
  2. 霊の囚獄とは何か?
  3. 幼くして亡くなった子供には何が起きるか?
  4. 死者を贖うとはどういうことか?
  5. パラダイスについての異なる霊的な状況はどんなものか?
  6. 参考資料

 

パラダイスとは何か?

パラダイスとは正しい人々が休む所で、この場所は正しい神権の権威によってバプテスマを受け、自分たちの聖約に忠実であった人々のために割り当てられた霊界の特定の場所です。(神権とは、神が、その子供たちの救いのためになるあらゆることをなすために、人に授けられた権能。)モルモン書:イエス・キリストについてのもう一つの証で聖書と対をなす聖典、の中では、預言者のアルマが次のように教えています。

義人の霊はパラダイスと呼ばれる幸福な状態、すなわち安息の状態、平安な状態に迎え入れられ、彼らはそこであらゆる災難と、あらゆる不安と憂いを離れて休む。(アルマ40:12)

大管長会(十二使徒定員会とともに教会全体の管理組織)の第一顧問である ヘンリー・B・アイリング管長は語りました。

わたしの父は。。。。。死が近づいているある晩わたしに語りかけました。彼は霊界ですぐ起ころうとしている楽しみな再会について話しました。そのように確信を持って語る言葉から、わたしはパラダイスで見られるであろう明るい日の光や微笑みをあたかも見ることができるようでした。[3]

イエス・キリスト教会の十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老は次のように語っています。

年齢に関係なく、わたしたちが愛している人が亡くなると嘆き悲しみます。人を悼むことは純粋な愛の最も深い表現の一つです。。。。。さらに、涙ながらで今別れる事なしには、喜ばしい再会を十分に感謝することはできません。死から悲しみを奪おうとすることは、人生から愛を奪うことです。。。。。もしわたしたちが幕屋の向こう側で起こる再会を見ることができれば、わたしたちの限界のある考えが拡げられるでしょう。そのとき、死の扉はふるさとに戻って来る人々に対し開かれるのです。そのような光景を詩篇の作者は書いています。「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」(詩篇116:15)[4]

パラダイスは幸せで平安の状態で、この世の心配や悲しみから自由です。しかし主のために務めることからは自由ではありません。パラダイスの霊たちは、主が「任じて、暗闇の中にいる者たち、すなわちすべての人の霊のもとへ行って福音の光を伝えるように彼らに命じられた。このようにして、福音が死者に宣べ伝えられたのである。」(教義と聖約138:30)というように働きます。

霊の囚獄とは何か?

囚獄とはだれかが無理矢理に閉じ込められ、自由を奪われる場所です。霊界では、囚獄が同じ意味を持っています。一人一人が強制的に閉じ込められ、それから逃れることができません。それは選択によるのか、あるいは状況から来ます。霊界にいるすべての霊が邪悪ではありません。ある人たちは福音に対する知識がなく亡くなりました。あるいは救いの儀式を受ける能力がありませんでした。あるいは永遠の世界において、最高位の幸福と成功を受けるために必要な儀式にあずかる機会がありませんでした。(教義と聖約138:32)しかし、囚獄にいるすべての霊は、ある条件が満たされるまでは、閉じ込められ、パラダイスに進むことができません。最初に、それぞれの霊はイエス・キリストの福音を受け入れその教えにそって生活しなければなりません。2番目に、霊たちのための儀式は聖なる神殿の中で、生きている者によって代理として執行されなければなりません。預言者も聖典もこの地上にかつて生きた人々はだれでも、この世であるいは次の世で、イエス・キリストの福音を受け、それを受け入れるか拒むかの機会を与えられると教えています。聖典によると、霊たちはその地上での生活の純粋さと主の意志にどれほど従順であったかによって区分されると教えています。[5]

地上にいる間にイエス・キリストの真実の福音を学ぶ機会がなかった義人たちの霊は、霊の囚獄にいる間は学び、生きている人たちによって自分に対する儀式が執り行うのを待つ時期になります。その儀式が完了すると、彼らは「囚獄」から解放されてパラダイスに移ります。地上にいたときにイエス・キリストを拒んだ悪人については(モルモン書の中の)預言者アルマが次のように教えています。

「さて、そのときの悪人の霊の状態はといえば、見よ、善い行いよりも悪い行いを好んだので、悪魔の霊が彼らのうちに入り込んで、彼らの体を支配していた。それで、これらの霊は外の暗闇に追い出され、そこで涙を流し、泣きわめき、歯ぎしりをする。これは、彼ら自身の罪悪のために、悪魔の意のままに捕えられて連れ去られた結果である。さて、これが悪人の霊の状態である。まことに、暗闇の中で、自分たちに下る火の憤りのような神の激しい怒りを、ひどく恐れながら待っている状態である。義人がパラダイスにとどまっているように、彼らはこのように、自分たちの復活の時までこの状態にとどまるのである。(アルマ40:13−14)

彼らもまた、イエス・キリストの福音を学ぶ機会が与えられ、その教えを受け入れるか拒むかを選ぶことができます。もし霊界でキリストを拒めば、復活まで自分の罪のために苦しみます。 キリストのことを肉体にあるときに確かに知り、主が神の御子であると確信した後、主を否定する者は、「新たにキリストを十字架につけること」になり、いかなる栄光の王国も受け継ぐことができず、滅びの子として、外の暗闇の中で永遠に住むでしょう。

幼い子供の時に亡くなる人には何が起こるのでしょうか?

幼い子の死ここで幼くして亡くなる人についての教義に触れることが大切です。イエス・キリスト教会では、8歳になると子供は神の前に責任を持つ年齢になったと見なされます。その前には、子供は罪がなく、無実です。理解が十分でなく、自分の行為に対して神に十分責任を取れる状態になっていません。かくして、8歳前に亡くなった子供は、霊の囚獄には送られず、パラダイスに入ります。これらの子供たちは、地上でも身代りの方法でも、バプテスマを受ける必要がありません。この点について、モルモン書の預言者モロナイは教えています。

見よ、わたしはあなたに言う。あなたがたは責任を負うことができ、罪を犯す可能性のある者に、このこと、すなわち悔い改めとバプテスマについて教えなさい。親たちに、悔い改めてバプテスマを受け、幼い子供たちのようにへりくだらなければならないことを教えなさい。そうすれば、彼らは皆、幼い子供たちとともに救われるであろう。幼い子供たちは悔い改めもバプテスマも必要ない。見よ、バプテスマは悔い改めに導くものであり、罪の赦しを得るための戒めを守ることである。幼い子供たちは、世の初めからキリストによって生きている。(モロナイ8:10−12;モロナイ8:10−21参照)

死者を贖うとはどういうことか?

モルモン教では、死者をあがなうことについての教義には2つの側面があります。まず、イエス・キリストの福音が霊の囚獄にいる人々に教えられなければなりません。次に、イエス・キリスト教会の教会員が福音の知識や儀式を受けることなく亡くなった人々のために身代りとして儀式を執行しなければなりません。アイリング管長は過去の預言者でこの御業について見たジョセフ・F・スミスの示現について述べています。

ジョセフ・F・スミス。彼は、救い主がその死と復活の間に霊界に現れた時にそこで何が起きたかを示現で見ました。スミス大管長は救い主が死の鎖を断ち切ったことを学んで、霊たちが喜ぶのを、また主の贖いのために自分たちが復活出来るので喜んでいるのを見ました。そして彼は、救い主がその霊たちの中でご自分に従うものたちを組織して、福音をすべての霊たちに教え、彼らが聖約と祝福を選ぶ機会を与えました。同じ福音があなたにも与えられ、あなたは先祖に対してもそれを望むでしょう。すべての者はその機会を得る予定になっています。

 

スミス大管長はまた、救い主が指導者を召され、天の父の霊界にいる子供たちの所に福音を伝えるようになさったことを見ました。その中には、父アダムと母エバ、ノア、アブラハム、エゼキエル、エリヤ、モルモン書の中の預言者、それに、ジョセフ・スミス、ブリガム・ヤング、ジョン・テイラー、ウイルフォード・ウッドラフなどのモルモン教の今までの預言者もいました。これらの宣教師が福音を教え、わたしたちの先祖の心に触れる力強い影響力を考えてみてください。。。。。わたしたちの先祖の多くは、これらの宣教師のメッセージが真実であるとの証を得られるでしょう。その証が得られると、宣教師にバプテスマをしてくれるように尋ねることができますが、霊界にいる人たちはそれができません。心から受けたいと望んでも、この世でしか行えません。この世のだれかが聖なる神殿に行って、霊界の人に代わって聖約を受けなければなりません。その理由でわたしたちには責任があり、先祖の名前を探し出し、わたしたちが彼らに代わって、その人たち自身では受けることができない儀式を代行するのです。[6]

D・トッド・クリストファーソン長老は次のように教えています。

ジョセフ・F・スミス大管長は復活を待っている霊たちは個人の救いの機会を与えられるだけでなく、夫婦として結び固められ、父母や過去のあらゆる世代の先祖とも結び固められ、自分たちの子供たちとそれに続くあらゆる世代の子孫とも結び固められことが可能になることを学んだのです。主は預言者に、これらの神聖な儀式は主の名前のために立てられた宮居、すなわち神殿においてのみ、ふさわしく行われると教えられました。。。。。ある人々はこれを誤解して、亡くなった方々の霊が「自分たちの知らないうちに、モルモンの信仰にバプテスマを受けて改宗させられてしまう」とか「かつて違う宗教だった人たちが、押し付けられる形で、前にさかのぼってモルモンの信仰を持つことにされてしまう」のように考えています。これらの人たちは、わたしたちが信仰のようなことを押し付けることができると考えているようです。もちろん、そういうことはできません。神は最初から選択の自由を与えれおられます。「悔い改める死者は贖われますが、それは主の宮居における儀式に忠実になることによって起こります。」しかし、彼らがこれらの儀式を受け入れることが条件になります。教会は彼らの数を教会員の数としては数えません。 [7]

正義の御方で、慈愛に満ちた天の父は、霊の子供たちがイエス・キリストの福音を知る機会がなかったということで、またその救いの儀式にあずかる機会にも恵まれなかったことで、永遠の罰を与えることはなさいません。ですから、イエス・キリストの福音が完全なままで、その光と知識がすべての神の子供たちに、過去から現在さらには未来にわたって地上に住むすべての子供たちに与えられるのです。その時まで神の業が終わることはありません。

パラダイスにおける異なる霊的な状況はどんなものか?

イエス・キリストが十字架で亡くなろうとする時、隣で刑を受けた盗人が言いました。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」(ルカ23:42)すると救い主は答えられます。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしといっしょにパラダイスにいるであろう。」(ルカ23:43)これはパラダイスが義人で正しい神権の権能のもとにバプテスマを受けた者の場所という礼儀からすると矛盾しますが、預言者ジョセフ・スミスはこれが誤訳であると説明しています。主が言われたのは、霊界、すなわち天の父の霊の子供たちが住む場所を指していたのです。[8]

2コリント12:3−4で使徒パウロは言いました。

この人が−それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存知である。パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間に語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。

この状況では、パウロはたぶん日の栄えの王国を指しているようですが、それは永遠の世界で得られる3つの栄えの状態の最高のものです。[9]

 

参考資料

  1. lds.orgの福音のトピックの中の「パラダイス」の項を参照
  2. mormonnewsroom.org の救いの計画を参照
  3. ヘンリー・B・アイリング、「教義を教える威力」、総大会、1999年4月
  4. ラッセル・M・ネルソン、「死の扉」、総大会、1992年4月
  5. 「この世の後での霊界」、福音の原則、2011年、240−44ページ
  6. ヘンリー・B・アイリング、「結び合わされる心」、総大会、2005年4月
  7. D・トッド・クリストファーソン、死者の贖いとイエスの証」、総大会、2000年10月
  8. lds.orgの福音のトピックの中の「パラダイス」の項を参照
  9. lds.orgの福音のトピックの中の「パラダイス」の項を参照