「オクラホマ」というミュージカルには「農夫と牛飼いは友だちになるべき」という素晴らしい歌が出てきます。その歌詞はこのようです。「おお、農夫と牛飼いは友だちになるべき。1人は耕し、もう1人は牛を追う。しかし、彼らが友だちになれない理由は何もない。。。。。」末日聖徒イエス・キリスト教会(時々はからずもモルモン教会と呼ばれる)と福音派の指導者たちは同じような調子で歌っています。教義の違いはあるけれど、友だちになれない理由は何もない。宗教の自由が(自分の深く信じることに従って考え、信じ、行動するという自由)がだんだん攻撃されているアメリカにおいて、このような友好関係は今までになく欠くことができません。「準州の住民は団結すべきだ」と言われていたように、宗教的な人々たちも団結して宗教の自由のために戦うべきです。ケンタッキー州ルーイスヴィルの南部バプテスト神学セミナリーの学長であるR・アルバート・モーラーはブリガム・ヤング大学(イエス・キリスト教会の代表校)での講演で述べています。

最も深い信仰を持っている同士だけが、たとえ最も深い所で互いに違っていても、宗教の自由と結婚と家族に対して忍び寄る脅威に対して互いに助け合うことができます。 [1]

 

モルモンと福音派は友だちになることができる

ほとんど10年前ぐらいに、2人の福音派の指導者が、彼らがモルモンのタバナクル合唱団の地元で講演したことで、異教間の話題のヘッドラインになりました。これは1人の世界的に知られた福音派の講演がソールトレイク市のテンプルスクウエアにあるタバナクルで1899年に行われて以来、初めての出来事でした。リチャード・モウはそのときのフラー神学セミナリーの学長でしたが、その歴史的な行事で、7分間に及んで著名なキリスト教の哲学者であるラビ・ザカリアスについて紹介しました。[2]ある人たちはこれが末日聖徒と福音派の教徒との今日まで続いている友好関係の始まりだと呼んでいます。9月に十二使徒定員会(大管長会と共にイエス・キリスト教会全体の管理をする組織)の二人がワシントンD.C.に赴いて、南部バプテストの代表者会議の倫理および宗教の自由委員会の長としての就任式に参加しました。ムーラーは10月にブリガム・ヤング大学でスピーチをしました。ほかの福音派の指導者(モウとザカリアスを含む)もユタでのスピーチをしたかあるいは予定されています。モウは6月に退職しましたが、福音派とモルモンの対話を長い間推奨してきました。彼は次のように述べています。

最低でも、二つのコミュニティー、福音派とモルモンは、これまでのところそれぞれの最悪の敵でした。福音派の運動の顕著な部分が、今健康的で友好的な対話を始めていて、何十人かの学者たちが互いに話し合い、教会の指導者に合い、互いに面会し合っています。 [3]

 

キリスト教の赦し

末日聖徒と福音派はそれぞれの違いがあります。モウはタバナクルでの2004年のスピーチの中で、イエス・キリスト教会の会員に詫びて、「はっきり言わせてください。わたしたち福音派は みなさんに対して罪を犯してきました。わたしたちはしばしばLDSの信仰を持った会員の信条や行いをひどく誤って伝えてきました。誤った証言をすることはひどいことです。」[4][5]

不幸にも、ほかの信仰についての誤解や誤った概念が、誤った情報を広める結果につながります。別の言い方をすれば、偽りの証言をすることになります。Mormonfaq.comはイエス・キリスト教会についての疑問に答えるサイトです。もう一つのサイトは、ほとんど全くこのサイトのように作られていますが、イエス・キリスト教会の教えをもう一つの宗教と比べています。結果は誤報であり、誤った説明であり、混乱になります。それは明らかに他のものに対する偽りの証言です。もし、私が、歯が欠けていれば、足病医に助けを求めません。同じように、末日聖徒として、私がユダヤ教についての質問に答えるとすれば、私は全く資格がありません。 他の宗教の人が、イエス・キリスト教会の教えについて説明しようとすれば同じようになります。そのようにすることはうまくいかないのです。そして、そのようなことが起こると、宗教のコミュニティーの間に分裂が起こります。イエス・キリスト教会の宗教間の関係でディレクターを務めていたジョン・テイラーは次のように述べています。

違う信仰のグループの中に、教義については違ってはいても、それは事実で疑問の余地のないことですが、共通点もあるという一般的な認識があります。[3]

そしてわたしたちはその共通点に則って、共通の目的のために戦う必要があります。

 

わたしたちの共通の基盤の上に築く

キリスト教の教えの中に共通点を見いだすことはそれ程難しくありません。わたしたちはだれもイエス・キリストを信じ、主の教えを信じています。わたしたちがどの戒めが一番大切かと言われたとき、救い主は、「主なる 心を尽くして神を愛し、自分のように隣人を愛せ」と答えられました。しかし、わたしたちの共通点はもっとあります。キリスト教徒は救い主の贖いを信じています。クリスマスには主の誕生を祝います。わたしたちはイースターには、主の死に敬意を表し、復活を祝います。教義においてははっきりとした違いがあります。しかし、それに注意を向けると決して互いの間に橋を架けることができず、むしろそれを破壊してしまいます。

キリスト教徒はイスラム教徒、ヒンズー教徒、ユダヤ人、それに他の宗教の人たちと共通点を見いだすことができます。わたしたちは皆より高いところに権能があることと善をなすべきことを信じています。イエス・キリスト教会のM・ラッセル・バラード長老がLDSの聴衆に語った言葉はあらゆる宗教の人々に共感してもらえるものです。

大部分のことにおいて、わたしたちの信仰と違った信仰を持つ隣人たちは、善良で、褒むべき人たちです。あらゆる点でわたしたちが 善良で褒むべき者になろうとしているのと同じです。彼らはわたしたちのように家族のことに気を配ります。彼らはわたしたちのように世界をよりよい場所にしたいと思っています。彼らは私たちがそうありたいと望んでいるように、親切で、愛に満ちて、寛容で、忠実です。 [6]

これらの類似の特質はわたしたちが培うことができ、またそうすべきものです。

 

「強い信仰を持って良心的な市民」を培う

モウは確信と市民としての特質、あるいは「強い信仰を持って良心的な市民」を奨励していて、次のように書いています。

私が20年前にこの市民である特質について探求しようと思ったとき、私はとりわけ宗教的な確信が世の中の意地悪な気持ちのルーツの大部分になっているように思われることが気になっていました。。。。。最近の改訂版で、私は依然として宗教がその問題の大きな部分になっているという事実を扱わなければなりませんでした。キリスト教の諸派は性的傾向についての議論で引き裂かれています。この文化についての戦いはスローガンを掲げています。過激派の教徒は、右翼であれ左翼であれ、自分たちの作った陰謀理論を彼らの宗教的あるいは必修狂的な的に対して広めています。

ルター派の学者であるマーティン・マーティーはかつて次のように観察しています。今日、良心的な市民は強い確信を持っていず、強い宗教的な確信を持っている人々はあまり良心的な市民ではありません。わたしたちが必要としているのは、強い確信を持った良心的な市民です。 [7]

イエス・キリストの使徒であるロバート・D・ヘイルズ長老はこの論調に共鳴しています。彼は次のように述べています。

わたしたちを非難する人々に対してどう対応すべきかという点について知りたいと思っているすべての人に、私は答えたいと思います。彼らを愛しなさい。彼らの人種、信条、宗教、あるいは政治的な傾向が何であれ、もしわたしたちがキリストに従い、主の勇気を実践するならば、わたしたちは彼らを愛さなければなりません。わたしたちは彼らより自分が勝っているとは思いません。むしろ、わたしたちは自分たちの愛をもっとよい方法で示そうと思います。つまりイエス・キリストの方法です。 [8]

もしわたしたちがイエス・キリストに従う者であるならば、どのキリスト教の教会に属していようとも、互いに対しての愛と同情心を持つべきとの主の教えに注意を払うはずで、わたしたちはこの世界の中でより大きな善を達成出来るでしょう。しかし、イエス・キリストの信徒はまた他の人に正しい教義と原則を教えるべき義務も感じています。そして、時にはこれらの原則や教義は宗教間で違っています。しかし、わたしたちは互いに耳を傾け合い、互いに意見が合わないことに同意すべきです。つまり確信を持ちながら良心的な市民として振る舞うことです。

モウはこのような良心的な市民としての特徴を養うすぐれた例を挙げています。彼はこのテーマについてある大学で講義をしました。そしてある教授が彼の宗派の人と同性愛者のグループがキャンパスで意見を交換した時のことについて話しました。その宗教のグループは新聞でなぜ同性同士の関係は神の律法に逆らうものであるのかという理由を説明した広告を新聞に出しました。それに対して、同性愛のグループはそれに応答する広告を出し、そのやり取りは辛辣なものとなりました。福音派の人たちは尋ねました。「わたしたちはどのようにそれを違うように対処出来たでしょうか?」モウは答えました。

わたしが言ったのは、最低、彼らのグループは自分たちの見解を公にする前に、密かに、同性愛の指導者たちと話し合うことができただろうということです。「あなたがたは彼らに出そうとしていたその広告のコピーを送って、その中のメッセージで彼らを不当に攻撃している部分があるか尋ねることができたでしょう。それから彼らに昼ご飯を一緒に食べながら、自分たちの考えを公表する前にそのトピックについて話し合えるように招待することができたでしょう。」

彼の反応は、誠実に後悔している調子で、「わたしは自分たちがそうやっていればよかったと思います!」

それから1か月して彼から一通の手紙が届きました。「あなたと話し手から、同性愛の指導者と連絡を取りました。わたしたちはその広告を出す前に、内密に彼らとあってその広告を出すことについて相談しなかったことを詫びました。そして、彼らを昼食に招き、彼らはそれに同意しました。」

この両者の出会いは、ひどい状態で始まりました。そう彼は報告しています。反対のグループはとても怒っていました。しかし、会話のある部分で、彼らの1人が十代の時に福音派の教会でひどい経験をしたことについて話しました。「わたしたちは彼女の話しに感動しました。そしてわたしたちはそう彼女に伝えました。」そう彼は語りました。何人かは、両方のグループで、涙を流しました。「わたしたちは意見を異にすることに同意しただけでなく、定期的に会合を開くことに同意しました。それはつらい話し合いでしたが、わたしたち福音派は自分たちの方から手を差し伸べることができたことに喜びました。確かに、怒って公に罵り合うことを鎮圧することになります。」[7]

わたしたちは同意する必要はありません、ただわたしたちは良心的な態度で違う意見を持っていることに同意する必要があるのです。そして、そのことは密かに、尊敬の気持ちをもって、一対一で会話をすることから始まります。平静な、良心的な公の場での対話が怒る可能性を高めるためにも、両者が面と向かって自分たちが正しいと思っていることをしようと努めることが必要です。イエス・キリストの使徒であるクウェンティン・L・クック長老はキリストの信徒に対して次のような勧告を与えています。

どのように相手の考えに反対するかによって、わたしたちが何者であるのか、わたしたちが本当に救い主に従っているのかが分かります。不一致があってもいいのですが、一致する気持ちがないのは適切ではありません。暴力や破壊行為は不一致の状態への解答ではありません。もしわたしたちが愛と尊敬の気持ちを、逆境においても示すならば、わたしたちはもっとキリストのようになるのです。 [9]

 

宗教的な自由に対して、「わたしたちは一緒にやるか、別々にするか」

宗教の自由は今日の世界では重要な課題です。というのはそれがもっと人気のある問題と一緒に出てきているからで、その土俵を失いつつあるように見えるからです。ムーラーは次のように説明しています。

互いに相対する自由がある時、社会はいつもどちらの自由の方がもっと大切かを選択しなければなりません。合衆国の歴史の中で、個人の自由に対して、より大きな民主主義のプロセスが対比されるという形で、この点に最も強い緊迫感が生じています。わたしたちが今日目撃しているのは、「性欲的な自由」と「宗教の自由」との対比とわたしが表現している現象です。。。。。今主張されているポイントは、彼らが自分らしくありたいという願望が、あなたが彼らの性的傾向やライフスタイルに合わせなければならないようにしていることです。それで、あなたはもう少し大きい問題のいくつかに目を向けます。そして、性欲的な自由と呼ばれるものが、過去半世紀における最も議論を醸し出すような文化的な運動のあまりにも多くの部分のまさに中核にあるのです。。。。。性と、性的な傾向と、生殖のことなどなど。

ここで起こる疑問は、社会がどのように特定の自由を無視するかを決定するかということです。。。。。例えば、避妊の処置を義務づける(医療保険制度改革法)ことについての疑問については、オバマ政権が議論しているのは、女性の生殖の権利が、キリスト教の組織が避妊回避の手段、あるいは堕胎薬に対し金銭的な支援や、配布を手伝うことを拒否する自由に勝利します。同じことが、同性愛の結婚についても当てはまり、その主張とは、「わたしの性的な傾向の自由が、あなたのカトリックの養子縁組制度が両性同士の夫婦の家庭のみに養子を送るという権利に勝利します。」。。。。。自由同士の葛藤というのは新しいものではありません。それは連邦政府の出版物の中に見つけることができます。しかし、これは新しい形態のものです。 [10]

南部福音派セミナリーの学長のリチャード・ランドもこの秋BYUで講演しました。デゼレト・ニューズとのインタビューで、「宗教の自由に関する限りでは、わたしたちは一緒に戦うか、別々にやるかという点が考えられます。この点に関してはわたしたちは、同じ土俵に立っています。」と述べています。[1]

BYUでの講演の中で、ムーラーは「わたしは、わたしたちが天に一緒に行くとは信じていませんが、しかし、わたしは一緒に牢獄に行くかもしれないと信じています。」と発言しました。その後で、彼が説明したのは。

わたしは誇張していませんでした。わたしが一緒に牢獄に行くかもしれないと語ったとき、正直に話していました。わたしが意味したのは共に刑務所に行くことを必ずしも意味したのではないですが、世俗の国家がわたしたちを一緒に苦しませるだろうと思っていました。[1]

ランドは述べています。「わたしたちに敵対する人たちは、わたしたちを区別しないでしょう。彼らは信仰を持った人たちに敵対しています。終止符。」[1]

信仰を持った人たちも区別をつけません。公の場で、彼らはすべての人々に同じような愛を示すことができます。すべてのことにおいてイエス・キリストの模範に従うとき、とりわけ互いに接する時、わたしたちは救い主に近づき、他の人たちがついて来られるような模範を示します。

 

信者は結束すべき

救い主は教えられました。「おおよそ、内部で分かれ争う国は自滅し、内わで分かれ争う町や家は立ち行かない。」(マタイ12:25)信者たちは互いに結束して宗教の自由のために戦わなければなりません。分かれていては、敵に対することができません。結束すれば、自分たちの声を聞いてもらえます。フランシス・ジョージ枢機卿は2010年にBYUで講演した時、次のように語りました。

アメリカの歴史から学ぶ教訓は、教会や他の宗教的な団体は、宗教的な自由を尊重し、市民の政府は決して市民の良心や宗教的な活動と絶対者の神の間に介入してはならないと認識している国家や社会秩序の中で繁栄するということです。

時にはわたしたちが共に支持している事柄によって、わたしたちの一方が、不寛容な筋によって攻撃されるかもしれません。。。。。しかし、将来、宗教間の連携が個人の良心によって生きる権利を擁護し、宗教的な組織が、政府や社会の中で宗教を純粋に個人的な現実にまで縮小させようとする力が働くという潮流に対して、必須の砦となることができるでしょう。

わたしが個人的に感謝していることは、180年間の間カトリックと末日聖徒は互いに離れて暮らしてきて、今や共通の道徳的な原則の擁護と、わたしたちの愛する国にとっての共通の利益を高めるために、相互に信頼のおける関係を築き始めています。わたしたちの教会は違う歴史があり、イエス・キリストという御方とその福音という共通の価値を持っていますが、信仰や実践の違うシステムがあります。 [11]

ムーラーはBYUでの講演の中で語っています。

あなたがたの信仰は結婚と家族の重要性について高い価値を付与しています。あなたがたの神学はそのような確信を基としていて、そのような価値意識は何百万人ものモルモンの家族によって愛をもって生活の中で実践されています。わたしたちは一緒に立って、自然な家族のために、自然な結婚のために、結婚の中だけに性的な関係があるようにという尊厳のために、人類が繁栄するという希望のために擁護します。

わたしはより対話を拡げて行くように、この世的にも永遠についても緊急な課題であることについて多くの対話をすることを希望してやってきました。わたしはあなたたちとともに立って結婚と、家族と、人間の性的な尊厳とを擁護することに何の恥じらいもありません。わたしは、あなたがたも同様にわたしのために擁護して語り行動するのを喜んで行ってくださってきたように、いつでも語り、行動してあなたの擁護者となり、あなたの宗教的な自由を脅かすものに対抗する準備ができています。 [1]

ダリン・H・オークス長老はイエス・キリストの十二使徒ですが、次のように語りました。

信者は宗教の自由を保つような方を求めることが可能であり、そうする義務があります。。。。。合衆国やそのほかの国々では宗教に関しての一般社会の評価が心配になるくらいに低下しています。かつては受け入れられていたアメリカ人の生活の一部であった宗教が、今や多くの人々に疑問視されています。影響力のある人々の中には、憲法が、宗教的な原則を実践したり、説教したりすることを含む 宗教の自由を保護する必要がどの程度あるとかと疑問視する者もあります。

このことは極めて重要な事柄で、わたしたちが人間の行動の中に絶対的な善悪の基準を定められた至高の存在に対してわたしたちが信仰を持っている事柄です。わたしたちは一緒になって変わることのない権利である宗教を行う権利、公的な事柄について自分たちの良心にそって投票すること、選挙に参加し、公の場や法廷で議論する権利を擁護すべきです。わたしたちは肩を寄せ合って、わたしたちの宗教的な信条を、それが何であれ、推奨し、実践する自由を擁護し、確かなものにするために立ち上がらなければなりません。この目的のために、わたしたちは一緒に同じ道に歩み、それぞれの方法で、信条が異なるのでそれに伴ってそうすることが必要ですが、追求する自由を擁護しなければなりません。 [12]

信者は共に立って、自分たちの宗教の自由を擁護しなければなりません。末日聖徒、カトリック教徒、福音派の教徒、それに他の宗教に属する人々は肩を寄せ合ってこの事柄に対処しなければなりません。さもなければ、わたしたちが深く信ずることは家の中の隠れた場所だけに閉じ込められてしまいます。そして、これはわたしたちの真の自由ではありません。真の自由は、考えたり信じたりするだけでなく、わたしたちが深く信じることに従って行動することも含みます。わたしたちの行動は言葉より雄弁に語ります。そしてもしわたしたちが自分の家の中の個人的な空間だけで宗教を実践するだけだとしたら、本当に宗教に生きていることにはなりません。どこにいてもわたしたちは自分たちの信仰に生きられるようにされなければなりません。他の人々の権利を尊重しなければなりませんが、自分たちの権利のためにも立ち上がらなければなりません。

 

まとめ

記事のタイトル:宗教の自由を擁護して一緒に団結する

著者:リサ・モンテーギュ

要旨:福音派の教徒と末日聖徒は宗教の自由を擁護して共に団結して戦わなければなりません。この戦いで、「わたしたちは皆一緒に頑張るか、それとも別々にやるかです。」

この記事はlmontagueによって書かれました。彼女はアイダホの山間にある小さな町に住んで、妻であり4人の美しい子供たちがいます。家族は一緒に、冬はスキーをし、夏はキャンプ、釣り、海岸に行くなどの活動をします。彼女は生まれたときから末日聖徒イエス・キリスト教会の会員で、人生で救い主と福音の祝福があることに感謝しています。