モルモンに「なる」ということは、わたしにとって、とてもゆっくりで、しかも説明しにくい過程でしたので、この日と言う日を決めることはできません。モルモンの家庭に生まれ、末日聖徒イエス・キリスト教会のプライマリー(子どものための補助組織)で福音やLDS(末日聖徒)教会特有の事柄を学び(特有だとも気づかずに)、賛美歌を歌っていました。わたしが4歳の時、聖餐会でじっと座っていることがわたしにはとても難しく、ある日、わたしは母に、教会が嫌いだからもう行きたくないと告げたことを覚えています。母は突然とても悲しそうな顔をしましたが、わたしにはその理由が理解できませんでした。

聖典を読んでいるモルモンわたしは、8歳でバプテスマを受け、とても勉強好きな10代になりました。LDSセミナリーに毎朝出席し、12歳の時に初めて、独りでモルモン書を読み通しました。わたしは、教会は真実だと強く感じていましたが、それは、霊的、宗教的な観点からのみ知ったことでした。大人になり、疑問を抱くようになり始めました。わたしの友人の多くはLDSではなく、彼らの信条を研究し始めました。真実だと思っていたことや、誰が正しくて誰が間違っているのかということについて、確かだと思えなくなり、自分探しのための万国共通時間である大学時代は、教会に行かなくなりました。

わたしは、真理を求めて、霊的な旅を少ししました。大学では、好奇心から専攻とは関係ない世界の宗教のクラスを取り、様々な宗教の仲間や友人と哲学的、宗教的な話し合いをしました。探求をしている中で、わたしは、あたかも心の中に「(鉱脈や水脈を探る)占い棒」があり、その事柄が真実がそうでないか教えてくれているように感じました。ある事柄は「しっくり」と来る感じがし、ある事柄は心の中で不和が生じたのです。わたしはこの直感を信じ、これらの事を試してみました。ある意味、心に種を植え、育て、どのような実がなるか待ってみたのです。甘い実と腐った実の両方が生ったので、甘い実に従いました。

わたしは、福音がわたしにもたらした大きな違いを見、感じたので、3年ほど前に、末日聖徒イエス・キリスト教会に全力を傾け、完全にモルモンに「なる」ことにしたのです。福音なしに生活するということは、まるで、霧深い暗闇を道を探しながら苦労しているような、弧独で迷っている感じがしました。福音により、わたしの行く道は明るくなり、わたしの心は開かれ、すべてのことはひとつになり始めました。わたしの学習と探求では、このように感じさせてくれる教会は他にありませんでした。確かにわたしは、真理のかけらや喜びのかけら、強さのかけらを見つけましたが、わたしが子どもの頃目の前にあったものほど充実したものではありませんでした。

試練に関する引用句わたしがなぜモルモンになったか、ですか?それは、わたしの心と魂に、その教えが真実であり、それらの教えに従い、全力を傾ける時、前進し、成長し、より良くなれると感じるからです。この福音はこの先もずっと、わたしと子孫にとって祝福になると知っています。それは、福音が真実であり、目的と方向を与えてくれるからです。福音がいかにわたしの生活とわたしの存在を包み込んでいるか、言葉に表すことができません。わたしが何者か、の一部であり、まさにわたしであり、それを変えることはできないし、変えたくもないし、他の方法はいらないのです。

この記事は、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員、メリッサによる寄稿です。