自己評価20−30点の駄目父親でありながら、反面教師の自分と周りの父親たちを見て来た思いをまとめ、社会の中での父親像の今と未来について語ってみたいと思います。
悔いがなく父親
人って還暦を超えると見えてくるものってありますね。若い時は夢中で走っているから自分が見えてきません。しかし、振り返ってみて、余裕を持って回りの人たちはどう考え、どう行動しているかをよく見ると、あのときの自分はこうすればよかった、このとき自分はどうしてこうできなかったのかと反省することも多いのです。
人生巻き戻しができるといいのですが。それができないから、読者のみなさんにはわたしのような悔いが残らないような生き方をしていただきたいということで、父親の理想的なあり方を追究してみます。
まず社会現象に目を配ってみましょう。ここアメリカでも、日本でも父親の影が薄い。滅多に社会の注目を集めることがない。あるとすれば、DVとか暗いイメージがついている。1980年代の日本では、父親のイメージは「亭主元気で留守がいい」とされ「粗大ゴミ」とまで言われ、どん底でしたが、その後一部回復、イケメンではなくイクメンの存在が注目されている現状には望みもあります。
では、3つのテーマに的を絞って理想の父親像に迫ってみましょう。犠牲、バランス、楽しみです。
1.犠牲バント
塁に出た走者がさらに前進できるように自分が犠牲になるバント。ほんとうは大きく打って拍手喝采を浴びたい願望を抑える。それが結果的にはチームを勝利へと進めます。自分の妻や子供たちの幸せや、成長を願ってどのようなバントができるでしょうか。振りかえってみると、自分のやりたいこと、やるのが使命だと感じていることのために逆に自分の家族を犠牲にしていた自分がいました。わたしにとって父親になった息子はこの点、90点以上あげたいような模範を見せてくれます。妻もすばらしい模範です。今はそれを見習って永遠の優先順位をていねいにチェックしながら進むようにしています。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。」(マタイ16:25)
家族の成長と安寧は神様の願いです。そのための犠打とは何でしょうか。自分の習慣、SNS、趣味、余暇、仕事上の成功、社交、時には自分の好きな教会の責任や活動なども含め、犠牲にしなければならないときがあります。友だちからのプレッシャー、世間体、タテマエ、自分で常識だと思い込んでいること、恥じ、気後れ、躊躇などの障害と戦わなければなりません。日の目を見ることのないところでの闘いです。その報いは何でしょうか?神様は、上の聖句で「永遠の生命」を約束なさってくださいます。世の目立たない努力にそのような最大の祝福が待っているのでしょうか。
2.バランスがすべて
どんな良薬も取り過ぎれば毒になります。家族が大切だと言っても、一緒に過ごす時間を大切にするあまりに仕事が手薄になり、収入が減り、あるいは仕事を失うことになれば家族がホームレスの危機に直面するかもしれません。反対に、仕事第一でお金だけは十分でも、父親不在の家族が失うものは莫大です。どこに線を引けばよいのでしょうか?
教会員として、バプテスマを受けた後、按手礼によって聖霊の賜物を受けます。これは掛け替えのない宝です。特権として、わたしたちはふさわしい生活をしている限り、いつでも聖霊の導きを受けられるのです。わたしは何十年もの経験を通して、何百何千もの小さい経験を通して、聖霊の助けが確かにあることを学びました。神様はどのようなことについても祈るようにわたしたちに勧めておられます。一見ささいに見えることからも自分の人生を、あるいは家族の将来を変える大きなことが起こります。わたしはこの年になってもっと天の父と具体的に、小さなこと1つ1つについて相談し、指針を受けることの大切さが痛いほど分かってきました。というか、痛い目をたくさんして自分の考えで突き進んでいた愚かさを改めました。
祈りの中で、神様はわたしたちの目を永遠の事柄に向けてくださいます。そうすればバランスがひとりでにとれます。
3.楽しくなくちゃいけない
義務感だけでは長く続けることが難しいものです。父親であることが楽しく、ワクワクするような経験であると気づくのはわたしたちの役割です。想像力を使うのはまさにこのことです。ちょっとヒントを探ってみましょう。
十二使徒のクリストファーソン長老は、2016年4月の総大会の中でこのように述べています。「男性は父親になると,自分の弱さや改善すべき点が明らかになります。父親の務めは犠牲を要しますが,比類ない充足感,実に喜びの源です。ここでも,究極の模範は天の御父です。御父は御自分の霊の子供であるわたしたちを深く愛しておられ,わたしたちの救いと昇栄のために独り子を与えてくださいました。イエスはこう言われました。『人がその友のために自分の命を捨てること,これよりも大きな愛はない。』父親は家族に仕え,家族を支える務めを果たしながら,日々自分の命をささげてその愛を示します。」
わたしたちは神のことを知るまでは本当の自分が分からないと教えられています。神様が永遠にわたって努力を向けてこられたこと、それがつまり天の父として万物の創造を通してご自分の子供たち、すなわちわたしたちのために教え、忍耐し、導いて成長を育んでおられることです。なぜそのようなことを限りなくなさるのでしょうか?そこに比類のない充足感があり、限りない喜びがあるからではないでしょうか。
この記事は有泉芳彦によって書かれました。