わたしには2歳の息子がいます。文字通り「魔の2歳児」です。四六時中、というわけではないのですが。でも、日曜日の聖餐式で(一番良い子にしていてほしい場所で) 彼は典型的な魔の2歳児っぷりを発揮してくれました。

夫が聖餐のパスを手伝うよう頼まれたその瞬間、絶対今日は荒れるだろうなと思いました。2歳の末っ子を含む4人の子供たちを、わたし一人で見なければいけないということなのです。

聖餐会中の苦闘

聖餐の賛美歌に入る前に、すでに雲行きは怪しくなっていました。手始めに、末っ子は賛美歌の本を取り出しては床に放り投げてくれました。それを片付けると、すぐさまフルーツのグミをめぐっての喧嘩が始まり、4歳の息子が泣き出しました。わたしが息子をなだめている間、末っ子は上のお姉ちゃんの手を振りほどいて通路への脱出へ成功。そうです、わたしは今日『子供を静かにさせられないあのママ』なのです。わたしはすぐさま泣いている4歳の息子を座らせ、末っ子を捕まえようと礼拝堂の外へと出ました。それでも末っ子は静かになりません。息子はわたしから逃げようとロビーを走り回り、いすの上に置いてあった出席表に落書きをしようと試み、しまいにはガラスのドアを押しのけ、駐車場へと逃げ出そうとしました。あと一歩で間に合わないところでした。本当にあと一歩というところで

ロビーには言うことを聞かない子供たちを落ち着かせようと、3人のお母さんたちが加わっていました。聖餐の祈りが終わると、神権者はこの神聖な儀式に参加する機会をすべての人に与えようとロビーへ出てきてくれました。一つ言うならば、その時わたしは神聖なことに参加する気分ではありませんでした。黙想する静かな時間も、聖餐の大切さに思いをはせる時間もありませんでした。証を強めるような霊的な経験はありませんでした。ただ一切れのパンを口に運び、ただ一杯の水を流し込み、ただ息子に聖餐を取らせようと必死になっている自分がいました。そんな風にしか感じられませんでした。

わたしはうまくこなせていなかったんだと思います。たった数日前に、どうしたら聖餐会を特別な経験にすることができるか、たくさんの素晴らしいコメントをソーシャルメディア上で読んだところでした。でもわたしは、「こんな経験、わたしにはできないわ。特にこの末っ子の面倒をみてたら。わたしみたいなママには、聖餐会中に霊的な経験をすることなんて到底無理な話よ・・・。」と思っていました。

霊的な経験

せっかくの日曜日が台無しになってしまったと思いました。聖餐の儀式が終わり礼拝堂に戻ると、証会が始まりました。そして一番最初の証が、その日曜日をガラリと一変させたのです。

その証をした姉妹は、モーサヤ書を読んでいたときに『輝かしい証』を持つことについて述べている一節に目が留まった経験を分かち合ってくれました。彼女は、聖典に出てくる預言者や使徒のような『輝かしい証』を持つという考えが好きで、その祝福を味わうために、自分の生活を変えたいと思ったそうです。彼女はわたしと同じように4人の幼い子供を抱えており、日曜日は特にてんてこまいになっていました。彼女はその慌しさを日曜日から無くすため、神様に熱心に祈り始めました。毎週日曜日に、自分の証に光を増し加えるような、霊的な経験をすることができるようにと。信仰を持って祈る時に、毎回証を強める経験を得ることができたと感極まっていました。そのような経験は、ある時は教会で、またある時は家に着いてから、またそのような瞬間が一日の終わりまで来ないこともありました。でも重要なのは、それらの経験が必ず与えられたということです。信仰をもって祈るときに、天のお父様は毎週日曜日に、証を強める経験を携えて祈りに答えられたのです。

その3分間のお話の間、子供たちは皆とても静かにしていました。おかげでわたしはゆっくりと、その姉妹の証を聞くことができました。彼女の証はまさしく今のわたしに必要なことでした。強い御霊を感じ、わたしの目には涙が浮かんでいました。日曜日に関して言うならば、祈ること、それがわたしに欠けていたのです。それに、休息が必要だとも感じました。霊的な経験というのは、なにも聖餐の儀式の間に限られたことではないのです。それが理想ではありますが、きっと多くの人にとってはそれが現実ではないでしょう。子供たちが敬虔に座っていられるようになるまで、この先何年もかかるでしょうし、2歳の末っ子はイエス様の絵がたくさん載っている冊子だけで、大人しくしてくれることもないでしょう。だからと言って、日曜日が台無しになる、という訳でもないのです。きっとわたしたちに必要なのは、たった一瞬なんです。御霊を感じるその一瞬が、一週間を乗り切るのに必要な慰めと元気をもたらしてくれるのです。その日曜日、その姉妹の証が、そのたった3分間が、わたしに必要な慰めと元気をもたらしてくれました。

確かに日曜日は長く、大変に感じることもあります。でもビショップを夫に持ち、4歳に満たない3人の男の子を含めた6人の子供を抱える@denaveyさんは、Instagramにこのように記しています。

天のお父様が何かとても大切なことを、必死にわたしに教えようとされていて、

そしてそれがわたしの人生にいくつもの素晴らしい方法で祝福をもたらしてくれるということに、気づき始めたのです。

聖餐会で幼い子供と悪戦苦闘する全てのお母さん、あなたは一人ではありません。

@jodeespencerさんはInstagramにこう書いています、

6歳以下の4人の子供がいると、聖餐会を他のプログラムより特別なものにするには努力が必要です。でもわたしが真剣に御霊を探し求めるとき、必ず見いだすことができます。そして御霊がわたしと共にいるとき、子供たちにもそれが分かるんです。いつもよりもっと敬虔に座っていてくれて、もっとよくお話を聞いてくれて、ママとパパが御霊に満たされ学ぶことができるように、助けてくれるんです 。』

natabc15さんはこうコメントしています。

小さい子供がいると、聖餐会で主を思い起こし、自分が何を改善するべきか思いをはせることはとても難しいです。でも、土曜日の夜にその週の反省をし、よくできたことと悔い改めるべきことをリストに書き出しておくだけで、日曜日の聖餐会にもっとふさわしく望むことができます。』

3つのPの提案

これらの姉妹たちのコメントと証から、聖餐会で幼い息子を上手に扱うための3つのPを思いつきました。

  1. Prepare (備える)
  2. Pray  (祈る)
  3. Patience(忍耐)

その週のうちに、または日曜日の朝にでも自分を備えることで、わたしたちも聖餐会を特別なものにすることができます。そうすることで、ぐずる子供を外に連れ出すことになっても、どうしたら主をいつも思い起こし、もっと主に仕えることができるかを心に留めておくことができるでしょう。

あなたの証を強めるような霊的な経験が、日曜日に得られるよう祈り求めてください。

教会でも自宅でも、それらの御霊を識別することができるよう学んでください。

祈り求めれば、証を強める霊的な経験が必ず与えられるということに、信仰を持ってください。

そして最後に、忍耐を持ってください。『輝かしい証』というのは、一夜では育ちません。敬虔な子供も、一夜では育たないのと同じです。聖餐会で悪戦苦闘する全てのお母さん、どうか諦めないでください。

「息子よ、あなた​の​心​に​平安​が​ある​よう​に。あなた​の​​逆境​と​あなた​の​苦難​は、つかの間に​すぎない。」(教義と聖約121章7節)

わたしの2歳の息子は、いつも大変な訳ではありません。だから頑張れるんです。お子さんと過ごす特別で愛おしい時間を、ぜひ覚えていてください。99%の割合で失敗に見えるかもしれないあなたの努力は、確かに実を結んでいるのです。

 

この記事はIrinna Danielsonによって書かれ、末日聖徒イエス・キリスト教会公式ホームページのブログに公開されたものです。