(「神への信仰」編集者より:この一夫多妻に関する記事は、末日聖徒イエス・キリスト教会が投稿したものではなく、この内容は同教会の公式な見解や意見を述べたものではありません)

前置きをしておきますが、繊細なテーマに関する投稿なので、わたしのいつもの末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン書があるので誤ってモルモン教と呼ばれる)に関する投稿に比べて少し長くなると思いますが、どうか通して読んでください。

妻とわたしは教義と聖約132章を読むことをしばらく避けています。ほとんどの人はこの章を読むことに抵抗があるでしょう。しかしここ二週間で、妻がこのテーマ(一夫多妻)に関してした研究に驚かされました。妻は祈りによって神様へ近づき、この章のすべての節を分析しました。わたしはこのテーマについてどんな記事を投稿をするよりも先に、妻の気持ち、見方、思いについて知ろうと思いました。

数週間前に立て続きメディアでジョセフ・スミスと一夫多妻のコメントがありました。返答として「そろそろ一夫多妻のせいでモルモン教を毛嫌いするのはやめる時期だ(It’s Time To Stop Hating on Mormons About Polygamy)」という記事を投稿しました。その記事はどちらかというとわたし自身の意見でした。この記事は、厳粛な勉強と深い瞑想による結果で、一夫多妻の概念に抵抗のある人に平安をもたらすために書かれたものです。

 

わたしの考える末日聖徒イエス・キリスト教会の一夫多妻制

末日聖徒イエス・キリスト教会が過去に一夫多妻制を実施していた理由を理解しようとするのは、多くの教会員にとって重要なことです。当たり前でしょうが、長年、特に女性はこのテーマを難しく感じてきました。バラリー・キャスラー・ホドソンはかつてこのように記しました。「一夫多妻の苦痛を感じたことのある女性は誰でも、少なくとも永遠について少しは触れないと満足しません。一夫多妻の苦痛を感じたことのある女性は誰でも、王国は彼女が実際に住みたいと感じる場所でない限り、日の栄えを心から目指すことはできません。」(Women in Eternity, Women of Zion,)

この世での生活を考えるだけで苦痛を感じるのに、それが永遠に続くかもしれないことを考えると信仰が砕かれてしまう人もいます。わたしたちは事実を受け入れて、話し合いをしなければいけません。

まず最初にはっきりさせておかなければいけないことは、メディアや場合によっては他の教会員が一夫多妻制について話しているとき、彼らは自分の言っていることがよくわかっていないということを覚えておかなければいけない、ということです。そう、わたしも自分の言っていることがよく理解できていないかもしれません。多くの人による物語や解釈、意見などのせいで、本当に起きたことや、なぜそれが起きたのかを知ることは困難です。

わたしの信じていることは以下のとおりです。一夫多妻婚は日の栄えの律法ではなく、それは日の栄えの王国で必須とされているものではありません。それは、霊的な日の栄えの律法である一夫一婦主義の例外として与えられた地上での律法です。聖典を読むと、それが証明されると思います。

主はモルモン書で一夫多妻を叩いています。モルモン書の中で、ダビデとソロモンを例にして自分の行いを正当化し複数の妻を持とうとした男が何人かいます。

 

一夫多妻制について聖典から学ぶこと

「ダビデとその息子ソロモンについて書き記されていることをもって、自分たちがみだらな行いをしていることの言い訳にしようとしている。」

『見よ、ダビデとソロモンは事実、多くの妻とそばめを持ったが、それは、わたしの目に忌まわしいことであった。』(ヤコブ2:23-24)

主は複数の妻を持つことは忌まわしいことだと宣言しています。それでも聖書には主が預言者ナタンを通してダビデにお話しされたとき、ダビデが複数の妻を持つことは許されていることが書かれています。

あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。」(サムエル記下12:8)

神様はダビデの時代に一夫多妻をとがめてはおられませんでした。主は一夫多妻を是認しておられました。ダビデが唯一問題を起こしたのは、彼がウリヤの妻(バテシバ)と関係を持ち、バテシバのお腹に宿る子供を隠すためにウリヤを殺したときです。

列王記上15:5には次のように記されています。

それはダビデがヘテびとウリヤの事のほか、一生の間、主の目にかなう事を行い、主が命じられたすべての事に、そむかなかったからである。

一夫多妻は「主の目にかなうこと」(列王記上15:5)でしたが、それは同時に主の目に「忌まわしい」こと(ヤコブ2:23)でした。

一見、聖書とモルモン書間の明らかな矛盾のように思えますが、他にも神様が「忌まわしい」とされたことを一時的によし、もしくは必須とされ、その行いをすることを人に許されたり、そうするように戒められたりしたことはないか考えなければいけません。

教義と聖約132章を深く勉強し、わたしにとって一夫多妻は性交渉に関してではなく、犠牲に関するものになりました。この原則は実際のところ、究極の感情の犠牲を必要とするものです。この原則に従って生きることを求められた人たちにとって、その犠牲は死よりもひどいものでした。感情の苦痛は肉体的に耐えられるどんな苦痛よりはるかにつらいものでした。

善良な男性たちはそれを嫌いました。(はい。本当に嫌っていました。)

女性はそれを嫌いました。(当たり前ですよね。)

ジョセフ・スミスはそれを嫌い、逃げました。(それは本人が何度も言ったことです。)そしてジョセフは他の人に、それは聖徒たちが直面する最も困難な試しのうちのひとつとなるであろうと言いました。

なぜか、神様はときに、人に与えられた一般的な戒めとは矛盾し、それに背く行いをすることを求められます。例えば、文明と人類を長年の間助けてきた「あなたは殺してはならない」という一般的な戒めです。「殺さない」という律法は従うと人生において幸せをもたらすという計算です。しかし神様は時折、一時的な律法に従うために一般的な律法を破ることを求められます。

神様はイスラエルにアマレクのあとを追うように要求されました。そして、「今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ。」(サムエル記上15:2-3)と言われました。生涯「殺すな」という教えを受けてきたイスラエル人たちがこの言葉を聞いたときどう感じたか想像できますか?

ラバンを殺すようにという戒めを与えられたニーファイがどのような気持ちだったか、わたしには想像がつきません。ニーファイはこう言いました。「わたしは今までどんなときにも人の血を流したことはない。わたしはしりごみをし、ラバンを殺さなくて済むようにと思った。」(1ニーファイ4:10)正しく、善いものであると知っていた戒めを破るという決断に直面したとき、義に満ちたニーファイの生涯は天秤にかけられているようでした。彼はその決断を前に、「しりごみ」をしました。

そして、アブラハムも同じように犠牲を払っています。