犠牲としての一夫多妻制

アブラハムが息子イサクにするように言われた戒めを考えてみましょう。アブラハムは自身とサラの唯一の息子であるイサクを犠牲に捧げるように戒められました。そのような戒めを受けてアブラハムの心はつぶされたでしょう。アブラハムとサラは何年もの間子供を授かるのを待ち、その果てに意味のないように感じるモリヤ山への旅をしていました。アブラハムは、「殺してはならない」というのが最も深刻な戒めのうちのひとつであることを知っていました。それなのに、その張本人が自身の誇りと喜びである息子にナイフを向けていたのです。それは、最も奮闘を要する信仰の試しでした。

イサクとアブラハムが山へ登る様子

画像はGregTrimble.comよる

神様はこれらの人々にたとえその目的が即座に知らされることがなくても、特別な目的のために、一時的な例外の律法に従うように要求されました。それは人が経験しえる最も耐え難い犠牲でした。一般の戒めは幸福をもたらし、例外の戒めは一時的なみじめさをもたらします。

多妻婚も同じように様々なときに特別な目的のために男女に与えられた例外の戒めだと信じます。主はヤコブに、ある目的のために一夫多妻を制定すると言われました。

「将来わたしのために子孫を起こしたいと思う時が来れば、わたしは民に命じよう。その命令がない間は、民はこれらのことに聞き従わなければならない。」ヤコブ2:30

ヤコブ書のこの節とそれ以前の節を読むと、一般の律法は一夫一婦制だということが明解です。聖典において、一夫一婦が禁じられることは一度もありません。しかし一夫多妻は、主が目的を果たされるために義に満ちた子孫を増やす必要があるとき以外は常に禁じられています。

そして教義と聖約132章を見てみると、主はアブラハムがイサクを犠牲にすることへの意欲と、アブラハムが多妻婚をすることへの意欲の興味深い比較をされています。34節には、神様がアブラハムに多妻婚をするよう命じられたと書かれています。どうやら「子孫を増やす」ためにアブラハムにこの戒めが与えられたようです。アブラハムにハガルを与えたのはサラでした。それによってサラはアブラハムの犠牲に耐えていました。サラはアブラハムに与えられた律法を守るためにそうしました。36節で、主はアブラハムがイサクを犠牲にすることを求められたことと、アブラハムが多妻婚をすることへの心持ちの比較をしています。どちらのケースでも、アブラハムが一般の律法から離れ、主から命じられた例外の律法に従う意欲を持っていたことから主はアブラハムを義と認められたとされます。

アブラハム、サラ、そしてハガルは一夫多妻家族をつくることになる例外の戒めを楽しいものとは思いませんでした。それは聖書に明確に記されています。それはアブラハムが主が命じられることはなんでもする決意があることを証明する最初の大きな試練でした。アブラハムはハガルと結婚し、彼女との間に子供をもうけることを望んでいませんでした。そうでなければアブラハムはもっと早くハガルをめとっていたでしょう。アブラハムはサラとだけ結婚し、サラとの子供をもうけたかったのです。しかし主は彼らの信仰を試し、犠牲について教えるためにそれを先延ばしにしました。彼らの従順の結果、アブラハムとサラはイサクという奇跡に恵まれました。

 

主は「逃れる道」を備えてくださっている

残念なことに、アブラハムとサラの試しはまだ終わっていませんでした。アブラハムは再び、一般の律法を離れ、例外の律法に従うように言われます。主はアブラハムに、息子のイサクをモリヤ山に連れて行き、彼を犠牲としてささげるように言います。信じられないでしょう?!

アブラハムはナイフを持ち上げるところまでいき、その瞬間、主は逃れる道をお与えになりました。イサクのかわりに子羊が犠牲にされ、アブラハムの幸福は再び彼のもとへ戻りました。

教義と聖約132章にもどり、50節を見てみましょう。主は多妻結婚についてジョセフ・スミスにこう言われました。「わたしが告げたことに従うあなたの犠牲を、わたしは見てきた。それゆえ、…わたしは、息子イサクをささげようとしたアブラハムの行為を受け入れたように、あなたの逃れる道を備えよう。」

主はここでなぜ「逃れる」という言葉を使われたのでしょうか?それはジョセフ・スミスに求められてきた犠牲に終わりが来るという意味です。

そう言うとそんなことを信じているなんて、わたしはどうかしていると思う人がいるでしょう。複数の女性と結婚することを犠牲だと思う男がいるなんて夢にも思わない人がいいます。しかし、妻を愛する善い男性にとっては、そのようなことは全く持って犠牲なのです。

主が一夫多妻を「アブラハムのような犠牲」と呼ぶとしたら、その律法に従うように求められた人々は、慰めを受けるでしょう。アブラハムの犠牲の最終的な特質はのちの解放、もしくは主の言葉を使うと「逃れる道」だったからです。

一夫多妻がそれに携わる善良な人みんなにとって苦痛を要する犠牲だったならば、なぜ主はそのようなことが日の栄えの王国でも続くようにするでしょうか。もしそれが実際に日の栄えの律法だとしたら、神様が一夫多妻婚を「忌まわしい」と呼ぶほどまでに強くとがめられるのはなぜでしょうか。聖典によると、「犠牲」には終わりがあり、アブラハムのように幸福は回復されるのです。

主が、一夫多妻という要求は来世において回避されるということは聖典のどこにも見当たりません。わたしが目にするのは、現世において、主は、御自身の目的で子孫を増やす必要のために誠意の犠牲として一般の律法である一夫一婦の律法からそれるとき以外は、一夫多妻をとがめられているということです。

教義と聖約132章は章全体が一夫多妻についてだと信じ、章前半にある永遠の結婚という新しく永遠の聖約とは一夫多妻のことだと勘違いしている人が多過ぎます。実際には、一夫多妻は啓示の後半まで触れられません。日の栄えにおいて必要なのは永遠の結婚(一夫一婦)であり、一夫多妻婚ではないと信じます。

では、実際に結び固められている人たちはどうなるの?とお思いでしょう。

天でも一夫多妻が行われていると考えることへの論理的な理由は完全なる憶測に過ぎません。天では男性より女性の数のほうが多いという教義や、子供をもうける時間が足りないという教義はどこにもありません。教義ではありません。実際、ほとんどの説明は論理的でもありません。

神様はジョセフ・スミスにその例外の律法から「逃れる道」を約束されました。ならば、なぜそれが天でも要求されるのでしょうか?

なぜ教会内でこのような考えが続くのか、わたしには不思議でなりません。まったく、メディアの報道に感謝です。メディアにほぼ強制されるかたちで、わたしと妻はこの原則について注意深く、祈りの心で考えることができました。

 

日の栄えの律法は一夫一婦制

多くの人が、複数の妻を持つことは天で必要とされていないかもしれないことに気づかず、思いつくこと全てを使って、なぜ天で一夫多妻が行われているのか合理的に理由付けをしようとしているように思えます。それが、夫と妻が永遠に続く世でふたりきりでお互いと過ごす時間を楽しみにする日の栄えの律法である一夫一婦制の例外の律法であることに気づかずに。

でも、複数の女性と結び固められている男性はどうなのでしょうか?ジョセフ・スミスはなぜそんなにも多くの女性と結び固められていたのでしょうか?中には14歳の少女もいました。

初期の教会で行われた結び固めのいくつかは、永遠に続く家族の繋がりへの結び固めが目的で行われ、性交渉を伴わないものでしたが、「義にかなう子孫を増やす」ための結婚が現れたようです。その義にかなう子孫を増やすという部分が、人々がアブラハムのような試しを受けたところだと信じます。それは男性にとって恐ろしいほどに困難なことだったでしょうが、特に女性にとってそうだったことでしょう。この原則の影響を受けた人々がとても厳しい反応をしたのも理解できます。

ジョセフ・スミス本人さえも率直に次のように言います。「わたしの歴史を信じられないという人のことを責めません。わたし自身も自分が経験したことを経験しなければ、信じられなかったでしょう。」

初期の教会は結び固めをよく理解しようとまだ努力していました。回復は時間をかけて起こり、理解するのは容易ではありませんでした。多くの結び固めは代理もしくは身代わりの結婚として行われました。昇栄を保証するために人々はありとあらゆる方面から中央幹部に結び固められました。時には福音を受ける前に亡くなった夫の未亡人が中央幹部に結び固められてから、夫を家族の一員とするために、同じ中央幹部に子供として結び固められたりもしました。(The Law of Adoption, Gordon Irving, BYU Studies 14 no. 3)

バラリー・キャスラー・ホドソンの言葉を引用します。

亡くなった夫と結び固められることはできず、誰かに妻として結び固められていないと昇栄には至らないという間違った理解のせいで、多くの女性が一夫多妻のうちのひとりの妻になりました。例えば、ジョセフ・スミスに一度も会ったことのない女性たちが、彼の死後に彼と結び固められました。ある女性は母親が昇栄を受けられるように母が亡くなる前に母と自分の夫を結び固めました。ウィルフォード・ウッドラフは400人以上もの女性の先祖を自分の妻として結び固めました。このような慣例を見ると、参加した人たちは、これらの女性たちはひとりの男性に意義深く永遠に結び固められるというよりも、男性は女性が結婚の儀式を受け、昇栄に預かれるようにするための代理人もしくは身代わりであると理解されていたようです。例えば、既に亡くなった女性で、あなたが一度も会ったことのなく、その人の意志を知ることは不可能で、しかもあなたのひいひいおばあさんにあたる人と結び固められることにどんな意味があるのでしょうか?義理の母を妻として結び固めることは?女性の場合は、一度も会ったことのなく、本人の意思を知ることのできない亡くなった男性に結び固められることにどんな意味があるでしょうか?これらの結婚は、身代わりの結婚というのが一番意味の分かる理解の仕方です。ウィルフォード・ウッドラフ大管長が1894年に、亡くなった人が生前バプテスマを受けていなくても、女性たちは亡くなった夫と結び固められることができる(そして子供たちは亡くなった両親と結び固められることができる)という発表をしたとき、何千もの結び固めは家族の系図に沿って移動されました。

ホドソンはさらに、教会の手引きから「移動可能」の教義があることが明らかになると指摘しています。

男女が神殿で永遠の結婚をしてから別れることになったら、子供たちは正当で、聖約を守っている親の元へ行きます。もし両親のどちらも聖約を守っていなければ、子供たちはその両親の元から取り去られ、他の人へと与えられます。そしてそれは聖約のもとで生まれるのと同じことになります。子供が聖約のもとで生まれるときは、二度目の結び固めをしません。しかし、長子の特権は移動することができます。(Qtuestions Frequently Asked About the Temple and the Endowmen (Salt Lake City: The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, 1981), 10)

これらの結び固めに起きているのはこれと同じことのように思えます。天のお父様の目標は『アダム…から最後の男女まで』すべての人を神様と結び固めることです。重要な結び固めは『悪魔があなたを彼の者として結ぶ』ことの反対である、神様と結ばれるものです。女性が一度新しく永遠の聖約によって神様に再び結ばれてから、彼女の儀式は自ら選んだ神権者へと移動することができる、というのがわたしには理解できることです。その女性が一夫多妻制に参加したくないのであれば、一夫一婦の関係を持つことのできる男性がいて、その女性は幸せになれるはずではないでしょうか。それ以外に一体どんな方法があるでしょうか?

天では物事は今と違い、一夫多妻もそんなに重大な問題ではなくなるという人もいます。それは本当のことかも知れませんが、もし『ここでのわたしたちの間にある交わりが、そこでもわたしたちの間にある』(教義と聖約130:2)としたら、多くの聖徒たちは例外の律法に従って暮らすことは望まないでしょう。

わたしは日の栄えの王国に一夫多妻制は存在しないと言っているわけではありません。ただ、それは日の栄えの王国での必須条件ではないと信じます。日の栄えの王国ではデファクトスタンダード(事実上の関係)だとは思いませんし、一夫多妻が昇栄を受けた個人に戒めとして与えられるとも思いません。聖典から預言者や中央幹部の教えまで、わたしが読んだものには、一組の男女が結婚の新しい永遠の聖約を結ぶと昇栄を受ける機会が与えられるという教えがあります。昇栄するためにはもうひとり妻が必要であるなどと、どこにも書いてありません。もしそうしたければ、永遠でたいていの場合受け入れらている一夫一婦の律法に従って生きることは完全に正しいことであるということを知って、夫婦は安心できると思います。

それはわたしに慰めを与えてくれました。妻も同様です。あなたにも慰めが与えられるように願っています。

わたしがここに書いたことは、個人の意見です。公式の教義ではありませんし、教会を代表して話をしているわけでもありません。わたしは教会を愛し、教会に感謝しています。わたしの唯一の目標は、このテーマに頭を悩ませている人がいらいらしたり、憂鬱な気持ちになる前に、あらゆる方面からこのテーマに目を向けるのを助けることです。

きっと、誰かの言葉を引用してわたしは間違っていると証明しようとする人が出てくるでしょう。それで良いんです!前もって言ったように、わたしは間違っているかもしれません。わたしはあなたと同じです。学ぼうとしているだけです。成長しようとしているだけです。わたしは、様々な方向から物事を見るのが好きで、たとえ自分の信じていることと矛盾することでも、増し加えられた光と知識について考えることを苦に思いません。このテーマについてされた発言のすべてを把握しているわけではありません。ただわたしが知っていることは、最近の勉強によって平安を見いだすことができたということと、その勉強は聖典と一致しているようだということです。

一夫多妻について教会の公式のコメントは、以下のリンクから見ることができます。

初期のユタにおける多妻結婚と家族カートランドとノーブーにおける多妻結婚末日聖徒イエス・キリスト教会における多妻結婚

一夫多妻は一般のそして永遠の律法である一夫一婦の一時的な例外であると心から信じます。旧約聖書の時代や、モルモン教初期の時代はそのような状況だったと信じています。それは携わった人たちの払った犠牲であり、アブラハムの犠牲との関係から、関わった人たちは望むならば『逃れる道』が与えられると信じます。

編集者ノート:「回復の礎」というインスティチュートのテキストには、「来世におけるこれらの関係が厳密にどうなるのかは分かりません。多くの家族関係が来るべき世で整えられることでしょう。末日聖徒は、知恵に富んでおられる天の御父を信頼するように勧められています」と書かれてあります。