性的なことにまつわることは、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン書があるので誤ってモルモン教と呼ばれる)の文化では大胆に話されません。しかしわたしは、性とは福音をよりよく理解し、福音に沿った生活をする上での中心となるものだと思います。
マスコミやブロガー、その他のソーシャルメディア上で影響力のある人たちは、末日聖徒イエス・キリスト教会と、その堅苦しい規則のせいで生まれた性的欲求不満の熱心な信者たちについて投稿するのが大好きです。
ただの流行であるとはいえ、この固定観念は、事実とかけ離れたものというわけでもありません。わたし自身の経験では、福音に忠実に生きる最大限の努力をすることで、自分への自信と自尊心が育まれたと同時に、性的関心も高まりました。
そもそもわたしがこれを書いている理由
わたしは性関連のことの博士号をもつ専門家というわけではありません。わたしがみなさんと分かち合えるのは、全てわたし個人の経験から学んだことであり、限られたものです。
子供の頃は、異性に高い関心を持つ少女ではありませんでした。男の子にキスをするような女の子ではなく、外で元気に遊ぶのが好きでした。ボーイッシュで夢見がちな、いつもスポーツか詩のことが頭に浮かんでなくて、男の子のことは一切考えていませんでした。しかし、それがわたしなりの方法で性的関心が芽生えるのの妨げになったわけではありません。人は皆、それぞれその人なりの方法で性的関心を発達させるものです。
わたしは、性に関してそんなに考えたことがありませんでした。
でもそれは、たくさん旅行をするようになって、モルモン教の会員ではない友達を作るようになってかわりました。毎回必ず、新しくできた友人に、自分がモルモンだと伝えると、教会とあまり関わりのない友人たちは、時にはストレートに、また時には少し恥を感じ、本題にすぐに触れないようにしながら、「モルモン教の人って、結婚するまで性交渉はしないって決まりなんでしょう?」と聞きます。
はじめてこの質問をされた時は、恥じらいもなく即答で「そうだよ!」と言いました。
でも、その後の質問にまるでビンタをされたかのように衝撃を受けました。「それって大変じゃない?」または「なんで?」や「生涯性交渉の相手がひとりだけってなんか縛られてる感じがしない?」や「身体の相性が合うかどうやってわかるの?」などです。
はじめこのような質問をされた時は、なんと言って返したらいいのかよくわかりませんでした。生まれてからそれまでずっと、両親、教会の指導者、そして自分の経験が、性的な清さがわたしの健康と幸福にどれだけ欠かせないものか教えてくれました。それはわたしの人格に刻まれていたもので、当たり前のように思っていた真実でした。わたしにとってそんなに基本的なことを、どうやって他の人に説明したらいいのでしょう?改めてそれについて考えてみたことがなかったように感じました。
なんとなく、よく聞く日曜学校での答えを並べてみましたが、友人たちはあまり納得していなかったことが感じ取れましたし、自分自身もそうでした。彼らにとってどうしてそんなに理解しがたいことなのか、わたしにはわかりませんでした。自分にとっては難しいことは一度もなかったのですから。
辛い方法で学んだこと
そして、よくある人生談のように、全てが変わったのです。それは全て、ある男の子から始まりました。突然、サッカーが好きで、夢見がちで、自立してボーイッシュだった少女は、自分を見失いました。突然、少女は全てを知っているわけではないと認めなくてはいけなくなりました。
要するに、ある少年を好きになり始めたのです。人生のすべてがひっくり返るくらいその子のことが好きで、それはわたしの人生をより明るく、彩りのあるものにしてくれました。彼への愛情は恋愛感情というわけではなく、信じられないくらい本当にうきうきさせられ、いらいらさせられ、疲れ果てるような、そしてそれも全部感じる価値がある、といった感情でした。わたしは当時彼を愛していましたし、今でも、あり得る全ての意味で彼を愛しています。
突然、彼ととてつもなく一緒にいたくなりました。突然、知らない間に自分のそのような面が発達していたのだと気づき始めました。突然、友人たちに同意せざるを得なくなりました。
性的な清さを保つことは難しいことです。ものすごく難しいことです。
事実、それは人間が人生で最も混乱しやすく、最も大変な時に直面する最も困難で最も混乱させるようなことと言っても過言ではないでしょう。
遂にこの程度の理解に達すると、ただ単に性的な清さを保つことは重要なこと、と感じるだけでは充分ではないと気づきました。たくさんの圧倒されるような、また幸福な気持ちと感情に加え、慢性的な寝不足のせいで、自分自身の気持ちをいつも頼りにすることはできませんでした。
わたしはそれを知らなくてはなりませんでした。自分自身の証を手に入れなくてはいけませんでした。そして、何時間もの祈りと聖典学習、そして痛々しい別れの結果、わたしは友人たちの質問すべてに対する答えを見出しました。あまりに単純で、自分の永遠の性質にあまりに深く根付いてして、でも、あまりに神聖で美しい答えで、単純にそれ以外の生き方が想像できませんでした。
わたしが遂に学んだこと
性的関心と霊的関心は、互いに対抗し合うものではないと気づきました。性は、わたしたちの中から追い出されたり、恥をもって隠されたりする必要があるものではありません。それは、非常に美しく、神聖なもので、わたしたちが正しい敬意と敬虔さをもって扱えば霊性を高めてくれるものです。
ではこの新発見である更に深い見解を持っていても、性的に清くあることは難しいことでしょうか?全くその通りです!しかし、人生において価値のあるものは全て忍耐と労力が必要です。そのおかげで、価値が更にあがります。それは、大切なもののためにわたしたちが喜んで払う犠牲です。そして今のわたしには、将来の祝福がどんな一時的な、または感覚的な喜びよりもはるかに価値のあるものだと知っています。
わたしの性的関心はモルモン教の信条、もしくはわたしが学んだ福音の真実によって誤って導かれても、抑えつけられても、もみ消されても消えませんでした。現実には、霊性と性は、わたしが自分のうちに秘められた神性や可能性について学ぶにつれて同じように育まれてきたのです。
福音に沿った生活をすることによって性的関心にどうやって益がもたらされるのか、ということに関してわたしが気づいたいくつかの単純な方法を紹介します。
1.混乱を晴らしてくれる
人間は、ただの知能よりはるかに先に性が発達する動物だということをご存知でしたか?それを欠点だと非難する前に、そのような発達の目的について考えてみたらどうでしょうか。まず、人間にはとてつもなく複雑な脳が与えられているのですが、その脳を発達させるために要する最初の約25年間に感謝するべきです。人格と性格も同様にこの時期に発達します。
次に言えることは、この期間を使ってわたしたちは肉体の持つ性質を充分に習得することを学ぶということです。神様のようになり、物質的な創造について学びたいのなら、まずは自分自信を熟達せずに、そのようなことをするとが期待できるでしょうか?福音に沿った生活をすることの美しさとは、この混乱に満ちた時に、わたしたちは自分に起こる変化について推測し、心配する必要が一切ないことです。成長に伴う変化は素晴らしく、望ましい欲求であると。
パッカー会長はこのように言いました。
「創造の力は,幸福の計画に後から付け加えられたものではありません。それは幸福の計画であり,幸福の鍵なのです。
配偶者を求める欲求は不変で,とても強いものです。この世の生活における幸福や喜び,そして昇栄は,人を常に駆り立てる,この肉体的欲求にどう応えるかに懸かっています。若い男女に宿る創造の力が成熟するにつれて,どのような肉体的な経験とも異なる,非常に個人的な感情が自然に湧き起こります。」
結婚後まで性交渉するのを待つことで、そうすることの重要性を理解し、御霊とともにいられるように必要な成長と理解力を得ることができます。それによって、わたしたちの性的関心と肉体関係の経験は増されます。性の測り方は、数ではないからです。それは、人生においてのその意味合いにあるのです。今日、大変多くの人が性を軽んじていますが、モルモン教の会員たちは、性をより高く、永遠の方法で理解しています。
2. 安定感を与えてくれる
年を取るにつれて、わたしたちは自分が何者であるか確立し、感情的にも成長します。そのおかげで、おのれを失うことなく誰かと性的な関係をもつことができるようになります。自分の価値は容姿や性的魅力、セクシーさとは関係ないということに気づけるようになります。かわりに、わたしたちの価値はより丈夫で永遠に続くものに基づいているのです。それは、わたしたちが神様の子供だという事実です。それを理解できると、性交渉は自分を見せつけたり、喜ばせたりする自分勝手な行動ではなくなり、現代の性に関する理解を全くくつがえす次元で他の人と繋がる機会をくれる、無我のものとなります。
性に関するとても大きな点は、わたしたちの性別と、自分の本性から生まれる可能性を探索することです。福音の光は、わたしたちの性別に見識を与え、それが永遠にどう関係しているのか教えてくれます。それは、グレーゾーンだらけで混同し、政治的に正しい定義にあふれた世界で安定感を与えてくれます。
『家族:世界への宣言』にはこう記されています。「すべての人は,男性も女性も,神の形に創造されています。人は皆,天の両親から愛されている霊の息子,娘です。したがって,人は皆,神の属性と神聖な行く末とを受け継いでいます。そして性別は,人の前世,現世および永遠の状態と目的にとって必須の特性なのです」
自分の神性と永遠の見込みに関するそのような理解を持てば、わたしたちは安心して前進することができます。もし今自分自身に自信が持てなくても、将来なり得る自分に、そして天のお父様が見ているわたしたちの内側に自信を持つことができます。そしてその知識はわたしたちが、混乱だらけのメディアや思いを曇らせるホルモンの変化からの襲撃を受けている時に、明確さを与えてくれます。
3.もっとロマンティックな関係を持つことができる
自分の神性が理解できるようになるまで成長するだけでは充分ではありません。ひとりの相手だけに心を決めることも充分ではありません。末日聖徒として、わたしたちは、肉体の関係を経験する前に、時間、死、距離、そして世界でさえもまたぐ永遠の聖約である、永遠の結婚から来る、更なる安定感という祝福を与えられています。
ホランド長老はこのように言いました。
「男女間でのそのような愛の行いは、全体的な結合の象徴として定められたものです。心、希望、生活、愛、家族、将来、全ての結合です。しかし、そのような完全で事実上壊れることのない結合、男女間の断固とした献身は、結婚の聖約から与えられる近接と永久性からのみ生まれます。それは、その結合の持つ全てのもの、彼らの心と思い、日々の全てと夢を含みます。」
性的な関係は、人間の経験する中で最も無防備なものでしょう。しかし、それには気分を浮きだたせる美しい機会が伴います。それは肉体的にだけではなく、感情的にも霊的にも、わたしたちの全てを分かち合う行為です。性を軽んじる人は、性交渉から得られる、男女の関係を強めてくれる機会を逃してしまいます。大抵の場合、そのような人たちは拒絶から起こり得る痛みや傷から自身を守ろうと自分を全てさらけ出すことはしません。彼らは全てを捧げないので、性交渉を完全に経験することができません。
正しい時と、場所と、人を待つことによって、末日聖徒は聖約からもたらされる守りと平安だけではなく、御霊の賜物も増して与えられます。それは、夫婦間の感情的、霊的な絆をより強めてくれるものです。
そしてこの夫婦間の永遠の経験全ては可能な限り最もロマンティックな愛の表現となります。真実の愛の相手と「めでたしめでたし」の経験を完全に、独占して分かち合えるなんて、なんて幸福なことでしょうか。
4.性に新たな次元を与えてくれる
モルモン教の会員として、わたしたちはより豊かで充たされた見方で性について理解しています。性交渉は男女をより近づけ、彼らを神様にさえも近づけます。性的な関係は、人類存続のためだけの肉感的で必要なものという考えではありません。わたしたちは天の両親が霊の子供たちを持たれたことと、わたしたちが子孫を持つ可能性(肉体的にも霊的にも)があることを理解し、肉体の関係は永遠の原則であり終わりがないと理解しています。
聖約と命を授かる能力を通して、わたしたちは天の両親により近づくことができます。
ホランド長老は次のように指導します。
「性的関係は、男女を、また彼らの魂をつなぐ象徴的な結合であるだけではなく、現世と神会をつなぐものでもあります。それでなくては平凡で誤りを犯しやすい人間が、神様とこの広い宇宙に生命をもたらすことのできる彼の全ての力と結合できる貴重で特別な瞬間です。」
5.天からの力をもたらす
性交渉によってわたしたちを神様に近づける能力と共に働くことが、少しの度合いではありますが、わたしたちが神様の創造の力に参加する方法です。天のお父様は、わたしたちに彼のようになれる方法を教えることを望んでおられるので、わたしたちに父親や母親となる機会を与えてくださいました。
再びホランド長老の素晴らしい知恵をお借りすると、このように言えます。
「実質わたしは、奇跡的で荘厳な生命を送る力、言葉で言い表せない、底知れない、壊れることのない創造の力以外に、女性や男性、聖任された者やされていない者、末日聖徒やそれ以外の人、わたしたち全てに通常に与えられている神聖な特権を知りません。
人生において、その特定の力を表しているとき以上に神様のようになれるときはないのです。神様は御自身にあるあらゆる称号の中で、御自分を「父」と名乗っています。そして「創造」、特に御自身のかたちに造られた人の創造は、神様のモットーのようなものなのです。人の命は最も偉大な神様の力で、最も神秘的で壮大な化学です。そしてそれは最も深刻で聖なる制限のもとに与えられているのです。山も月光も、一粒の雨や一本のバラすら作り出すことのできないあなたとわたしですが、そんなわたしたちにこの素晴らしい賜物は、限界の全くない状態で与えられました。そしてそれを操る唯一の方法は、自分を操ることです。それは、この神聖で、聖礼的な力に対する敬意から生まれた自制心です。」
これらのことが重要な理由
性は良いものです。それはわたしたちに与えられた神聖で永遠の賜物です。そのため、性はわたしたちが堂々と話すのを避けたり、恥や恐れを感じたりするべきものではありません。しかし、それは神聖さと敬意をもって扱うものべきです。同時に、末日聖徒は他の人たちは自分の人生を自由に生き、彼らなりに性を確立するという事実に敬意を示すことができます。だからといって、そのせいでわたしたちが知っている真実を分かち合うことをやめるべきではありません。
将来あなたが、誰かにわたしがよく聞かれたのと同じ質問をされたら、恐れずに証を分かち合うことができるよう願っています。福音が、全ての面でわたしたちの霊性に伴って性的関心も高めることを、恐れることなく説明できますように。
この記事はDanielle Beckstromによって書かれ、ldsliving.comに”How Living the Gospel Enhances My Secuality and Spirituality” の題名で投稿されました。
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