わたしは、5年前に末日聖徒イエス・キリスト教会に改宗しました。教会に初めて行った時「え、何これ不思議」とか、「ちょっと変わってるなあ」とカルチャーショックを受けたことがありました。今回はわたしの受けたカルチャーショックと、実際に教会員になってみて、本当はこうだった、とか、その理由はこうだった、ということを紹介していきたいと思います。


1. ○○兄弟、○○姉妹と呼び合う?

わたしは6年前にアメリカのユタ州に留学をしました。ある日曜日の朝、ルームメイトに誘われて教会に行ってみました。その時に教会員同士で「シスター○○、ブラザー○○」と呼び合っていました。とっさに浮かんだのは「天使にラブソングを」の映画です。シスターという言葉を、カトリック教の修道女を呼ぶ時以外に聞いた事がなかったからです。「ん?兄弟?姉妹?」と少し困惑し、不思議な呼び方だなと思いました。改宗してから、その呼び方が「わたしたちは神様の息子、娘であり、皆が兄弟姉妹である」という由来であることを知りました。皆が家族、なんだか素敵だと思いませんか?


2. 毎週日曜日に教会に行く

クリスチャンの人にとっては当たり前かもしれませんが、改宗するまでわたしにとって日曜日は買い物に行ったり、友達と遊んだり、アルバイトをしたりする日でした。最初は「日曜日の娯楽の時間がなくなる……?」と、不安に感じたことを覚えています。教会員にとって日曜日はとても大切で、神聖で特別な日です。教会に行って聖餐のパンと水を取りこと、そして教会でのレッスンを受けて家庭でも聖典学習をして、家族や友人と食卓を囲む日曜日は、今となってはわたしの楽しみな日となりました。このように体と心を休め、イエス・キリストの教えを学ぶ日曜日は「安息日」と呼ばれ、休息の日として過ごします。それは、神様が天地創造をされた時に6日間でこの世界を作り、「……すべての作業を終って第七日に休まれた。」という聖書からきている習慣です。(旧約聖書創世記第2章2節)今では、日曜日はわたしにとって大切な充電日です。


3. 助け合う教会員

教会のレッスンを受けている時、気になることがありました。それは、知り合って間もない教会員たちが困った時にいろいろと助けてくれたことです。教会までの送り迎えをしてくれたり、おいしい料理やお菓子を作ってくれたり、落ち込んでいる時に電話をくれたりアパートを訪ねてくれたり…とてもうれしい半面、どうして知り合って間もない人にここまでできるんだろう、と思っていたのが本音です。

それがイエス・キリストの教えであり、教会員たちが心から喜んで行っているということを知ったのは、改宗後に聖典や教会の指導者の教えを学んでからです。今では奉仕をすることで相手も自分も幸せになり、神様の愛を感じることができると確信を得ています。


4. 言葉遣い

わたしは、これまで旅行や留学などでいろいろな国や地域に行く機会がありました。どこに行っても当たり前ように聞こえてくる悪い言葉や下品な言葉を、教会員から聞くことはめったにありません。ユタ州に留学して、教会員の言葉遣いにはとても良い印象を受けました。

言葉遣いに対する教会の教えは、このようになっています。「服装と身だしなみと同様、言葉遣いと行動にも人柄が現れます。あなたの言葉と行動はあなた自身と周囲の人々に幸福をもたらすことを通して自分を表現してください。」(『真理を守る』148ページより)

普段人と接するとき、好感を持てる人の話し方や言葉遣いを注意して聞いてみてください。その人はきっと言葉遣いがきれいだったり、前向きな発言をしているはずです。

マザーテレサの有名な言葉に、

「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから」

という言葉があります。普段の言葉遣いがとても大切であることが分かりますね。


5. 教会員は皆、優等生?!

教会のことをあまり知らないころ、わたしは教会の宣教師や教会員は皆真面目で、教育熱心で学ぶ意欲に富んでいる人たちだな、という印象を受けました。「主はこう命じておられます。『……研究によって、また信仰によって学問を求めなさい。』(教義と聖約88:118)……教育は社会や教会でより大きな奉仕ができるようあなたを備えてくれます。自立し、家族や助けの必要な人を養うためのより大きな助けをあなたに与えてくれます。また将来の伴侶にとっては賢明な相談相手や同僚、将来の子供にとっては知識が豊富で有能な教師になれるようあなたを助けてくれます。教育は投資であり、とても大きな報いを与えてくれます。またほかの手段では得られない機会の扉を開いてくれます……一生涯、学ぶ意欲を持ち続けてください。学び続け、興味を広げる喜びを知ってください。あなたが利用できる様々な学ぶ機会に積極的に参加してください。」(『若人の強さのために』9ページより)学ぶことが大切な理由が分かりますね。


6. 服装とガーメント

教会員の下着

写真はChurchofJesusChrist.orgより

カナダで留学中、わたしにはとても仲の良いイスラム教徒の友達がいました。ある日わたしは、なぜイスラム教徒の女性は皆髪の毛をスカーフで覆っていて、全身を隠しているのかと聞きました。彼女は、「神様は、体は神聖で美しいものだから、特別な人(家族)にしか見せてはいけないと教えているの」と言いました。なるほどな、と思ったのを覚えています。

その後、日本で宣教師に誘われて日曜日に教会に行った時、ほとんどの教会員がロングスカートをはいていました。正直その時は、「え……まさか、皆普段からそんな格好をしているの」と思いました。

しかし、これには理由があることを後で知りました。M・ラッセル・バラード長老はこう言いました。「ぴったりしすぎた服、短すぎる服、胸もとが開きすぎたり、股上が浅すぎたりする服を着ると、日常をともに過ごす若い男性に謝ったメッセージを伝えるだけでなく、女性の価値は性的な魅力でしか決まらないという誤った考えを自身の中に深く根付かせるということを、[若い女性]は理解する必要があります。そのような誤った考え方が、神の忠実な娘を表す義の定義に含まれることは、過去にも未来にも絶対にありません」(M・ラッセル・バラード「母と娘」『リアホナ』2010年5月号, 20)

もちろん、教会員が毎日ロングスカートに長袖を着ているわけではありません。教会員も、慎み深い範囲内でファッションを楽しみます。

あなたの周りにも、大胆で露出度の高い服を着ていなくても、魅力的で凛としていて、品のある女性はいると思います。そんな素敵な女性像を称賛するこの教会の文化が、わたしは大好きです。

そしてもう一つ、わたしが驚いたことがあります。それは教会員の下着です。

神殿の儀式を受けた教会員は、「ガーメント」という特別な下着を着ます。これは教会員にとって、とても神聖で大切なものです。この下着をいつも身につけていることで、教会員は神様と交わした誓約をいつも覚え、守られます。


7. 結婚が早い(でも同棲はしないし
純潔の律法もある)

服装からさらに驚いたことがあります。それは、教会員の結婚の早さです。ユタ州では、付き合い始めて数カ月のカップルが次々と結婚していく場合が多々あります。しかも、20代前半の人がとても多いことに驚きました。日本では結婚の高齢化が進み、30代後半で結婚する人も少なくはありません。二十歳前後のころ、わたしは結婚についてはあまり考えた事はなかったような気がします。

同棲することが当たり前になったり、結婚前の妊娠、いわゆる「できちゃった結婚」が増えてきている中、末日聖徒イエス・キリスト教会には、法的に結婚するまでは、決して性的な関係を持ってはならないという教えがあります。今日の世の中は、お互いが愛し合っていれば肉体関係を持っても良いとする傾向があります。わたしはいつもこの事実に対して違和感を感じていました。相手を大切に思うなら、相手を敬うべきであるというイエス・キリストの教えは、特に今の時代にとても必要なことだと思います。


8. 家族愛と優先順位

教会員は、家族をとても大切にし、家族を優先するという教えを守ります。日本で会った宣教師の多くが、自己紹介をする時に家族の写真を見せてくれました。日本でも、昔は家族を一番大切にしなさいと言われていたり、そのような言葉をよく耳にしていましたが、最近は時代や家族の形態の変化により、家族関係が薄れてきているような気がします。大学生のころ、夏休みに実家に帰省する前にたまたま立ち寄ったお店の店員さんが、「よく実家に帰られるんですか?すごいですね。僕はもう10年以上も帰っていません。電話もしないし、生きてるのかも分かりません。帰っても何を話したらいいか分からないし、意味がないと思うんです」と話していました。わたしは驚きました。同時に、とても悲しく感じました。

末日聖徒イエス・キリスト教会では、家族は死後も永遠にともにいることができると信じています。大切な人と、いつまでも一緒に過ごすことができるという知識は、わたしの心の支えとなっています。

少し前、親戚の間でお金に関する問題が起きてしまい、兄弟の関係に亀裂が入ってしまったという話を耳にしました。すると、クリスチャンの義母はこう言いました。「死ぬ時に天に持っていけるのはお金じゃない。天に持っていけるのは生きている間に築き上げた人間関係だけ」その言葉を聞いて、「なるほど」と思いました。


9. 伝道

自転車に乗って伝道する宣教師二人組

スーツ姿にヘルメットをかぶった自転車に乗っている二人組の宣教師を見かけたら、彼らの年齢を聞いてみてください。そして、なぜ彼らが日本にいるのかを尋ねてみてください。わたしが何より驚いたのは、その若さだけではなく、自分のお金で2年間無償で奉仕をしていること、そして彼らが自分の意志で行っているということでした。伝道に出るタイミングはそれぞれですが、ほとんどの宣教師は高校を卒業してすぐか、19歳か20歳ぐらいで親元を離れ、伝道活動に出ます。自分がそのぐらいの年齢のときのことを考えると、自分のお金で2年間学校に行くのをを遅らせて、奉仕をしたい!なんて全く考えてもいなかったです。若い時に2年間日本で伝道した夫は、「2年間、自分のことを考える時間は全くなかったよ。常に他の人をどうやって助けることができるか、どうしたら一人でも多くの人に、イエス・キリストの教えやメッセージを伝えることができるかしか考えていなかった。でも、結果的に今までの人生の中でその2年間が一番幸せだった。だから伝道が終わる時、このままずっと伝道をしていたくて、涙を流しながらアメリカに帰ってきたよ」そう話していました。教会員になるまで、宣教師は強制的に教会から送られてやってきている、と思っていました。どうやらそれは間違っていたようです。


10. 強引さには理由がある!

宣教師からレッスンを受けていた時、宣教師と教会員に、少し強引な印象を受けたことを覚えています。日曜日の教会、教会の活動への招待やバプテスマを受けることについて、ちょっと強引だなと思うことが多々ありました。初めは、教会員を増やしたいから?と思っていました。わたしは、その時教えてくれていた宣教師に、そのことについて尋ねてみました。すると、その宣教師からこのような答えが返ってきました。「例えば、あなたが何かとても素晴らしいものを見つけた、もしくは、すごい情報を持っているとします。それを、とても大切な人に分け与えたいと思いませんか?皆はあなたに本当に幸せになって欲しいと思っているんです。」イエス・キリストの教えを学べば学ぶほど、その気持ちが理解できるようになってきました。


11. 天国に一番近い場所

教会員にとって神殿は、とても神聖で天国に一番近い場所だと言われています。神殿は、人と神様が聖約を交わす神聖な礼拝の場所です。神殿の中では色々な儀式が行われています。そして神殿に入ることができるのは、神様の戒めを守り、ふさわしく生活している教会員のみです。教会員であっても、ふさわしく生活していない教会員は入ることはできません。初めは少し疑問を持ちましたが、神殿がどのくらい神聖なものかを理解することにより、その神聖さを保つためには必要なことだと分かりました。伊勢神宮の正宮に一般の人が入れない理由も、聖なる場所を守るため、とされています。


12. 握手を交わす教会員

教会の文化には、握手を交わす文化があります。初めて教会に行ったときは驚きました。通りかかる人、皆がにこにこ笑顔で握手を求めてくるのです。ビジネス業界ではよく見ますが、日本で知り合いと会っても握手を求められることはあまりないですよね。おそらくこの西洋文化は、宣教師など外国からやって来る教会員によって、日本の教会に伝わったのではないかと個人的に思っています。


13. 急に泣き出す教会員

教会では、聖餐会やレッスンなどで自分の経験や信仰、救い主や神様に感謝していることを皆の前で話すことがあります。中には、話をしながら言葉を詰まらせて泣き出す人がいます。わたしは日本で生まれ育ちましたが、そのような光景を見たことはあまりありませんでした。隣にいた宣教師に、「彼女、どうしたの?大丈夫?何かあったの?」と聞いてみたら、宣教師もキョトンとして、「彼女は御霊を感じているだけだよ。大丈夫です」そう答えました。御霊?なんだそれ。そう思ったことを覚えています。わたしたちが悩んでいたり、落ち込んだり、大変なことがあったときに、誰かが助けてくれたり、話を聞いてくれることで自分が愛されていると感じて、涙が出てくることがありますよね。その感情と似たような気持ちを、神様に感じているのです。今ではわたしも、急に泣き出す教会員の話を聞きながらともに涙しています。


14. ステンドグラスや十字架、マリア像がない

末日聖徒イエス・キリスト教会の建物

キリスト教会と聞いて頭に浮かぶものは、十字架、ステンドグラス、マリア像などですよね。

教会に行った時、そのような光景を期待していました。実際に教会に行ってみると、そのどれもありませんでした。末日聖徒イエス・キリスト教会では、マリアは神様ではないということを信じ、神様にのみ祈るということからマリア像がありません。十字架は、イエス・キリストの死を意味するものであり、教会では「死」だけではなくイエス・キリストが辛い死を乗り越え「復活した」という事実も大切にしているということが、十字架を掲げていない理由です。

皆さん、どうでしたか?この中にあなたの受けたカルチャーショックはありましたか?

また、教会員であれば、これらのカルチャーショックを受けているであろう人でに出会ったら、その人の視点を理解しようとし、優しい手を差し伸べてあげてくださいね。皆がともに理解し合い、幸せになることを願っています。