ジョセフ・スミス・ジュニアは1805年12月23日にバーモント州シャロンで生まれました。彼はジョセフ・スミス・シニア(1771-1848)とルーシー・マック(1775-1856)の間に生まれた11人の子供の5番目の子供でした。その中には、1797年生後間もなく息を引き取った名前のない息子が含まれています。11人の子供のうち9人が成人しました。9人は6人の息子と3人の娘で、アルビン、ハイラム、ソフロニア、ジョセフ、サミュエル・ハリソン、ウィリアム、キャサリン、ドン・カルロス、とルーシーでした。

目次

1 子供時代
2 腸チフス
3 ジョセフ・スミスの家族と宗教
4 最初の示現
5 天使モロナイの訪れ
6 宝探しと結婚
7 預言者としてのジョセフの生涯
8 ジョセフ・スミスの殉教
9 殉教の影響
10 ジョセフ・スミスの遺産

子供時代

初めのうち、スミス家は非常に貧しかったので、引越しを余儀なくされ、1811年の最初はニューハンプシャーへ、それから1816年のジョセフが10歳の頃、ニューヨーク州パルマイラへと引っ越しました。バーモントでは、家族は朝鮮人参の貿易でまかせていた仲介者が利益を持ち逃げしたため、大損をしました。これにより家族は困難な農業に従事しなければならなくなり、パルマイラの丁度南の整地されていない土地を購入することから始めました。ジョセフの少年時代、母のルーシーはジョセフが重労働に慣れ、深い物思いにふけることもあるが、あまり読書はしない、ごく普通の少年であったと記しています。

 腸チフス

子供時代の注目すべき出来事は、家族がニューハンプシャーのレバノンに住んでいた1811年に起こりました。ジョセフは当時流行っていた腸チフスに感染しました。(この病はこの地方で流行しており、6,000人以上が死にました。)熱は下がりましたが、菌が足を冒してしまいました。ジョセフの兄ハイラムは痛みを和らげるために治療できる医師が見つかるまで、何週間も腫れたジョセフの足を抱えていました。家族にとって幸運なことはダートマス医科大学が近くにあったので、何人かの著名な内科医がジョセフの治療に訪れました。医師たちは切断するよう勧めましたが、母のルーシーはそれをさせませんでした。足を切断した開拓者の生活がどうなるかを知っていたからです。そのかわりにネイサン・スミス医師が足を切開して感染した部分を取り除くという申し出をしました。幼いジョセフはその頃7歳くらいでしたが、母親に家を出てもらい、父親に手術の間しっかりと抱いてもらうように頼みました。ジョセフは当時唯一の麻酔であったウィスキーをとることは拒み、痛みに耐えました。手術のとき、彼は大量の出血で死にそうになりましたが、数ヶ月後には回復し、生涯少し足をひきずるだけの後遺症しか残りませんでした。回復時には何ヶ月も松葉杖を使わなければなりませんでしたが。新鮮な海の空気は治りを早めるのではないかという望みから、しばらくの間ジョセフはマサチューセッツ州セーラムのおじの所で療養しました。このことでスミス家の蓄えのお金は無くなりました。家族はこの一件の前でさえ、2、3年間の正式な教育を子供達に受けさせることしかできませんでした。

ジョセフ・スミスの家族と宗教

ジョセフ・スミスの家族は信仰深い家族でしたが、当時の開拓者の人々に共通するように通常は一つの宗教に専心することはありませんでした。家族は定期的にともに聖書を読み、ともに祈り、魂の幸福に深く心をくだいていました。この愛された若いジョセフ・スミスも同様で、後に彼はよく星を見上げては神について、そして自分の救いについて深く考えたと回想しています。「宗教を持って」救われたいという望みがありましたが、他の人のような感情を持つことができなかったと述べています。1816年から17年にかけてジョセフが12歳の頃、ニューヨークのあたりでは伝道集会が広まり、それは第2次大覚醒と呼ばれたものの一部でした。このことで彼は非常に宗教に関心を持つようになりました。

しかし日々の忙しさの中で、ジョセフ・スミスは正式な学校教育を受けたり、家で勉強することもままなりませんでした。彼は聖書を読みましたが、学校にはほんの数日しか行っておらず、両親が基本的な読み方と計算を教えました。家族の貧困はジョセフを含む年長の息子たちが近所の農場の日雇いとして働くことを意味しました。そして父親のジョセフ・スミス・シニアは町で食物やアルコールを売るスタンドを時々開きました。少年たちは熱心に働くことと、勤勉さで知られていました。それは所有して整地した何エーカーもの土地と、自分たちで建てた木造家屋からも分かりました。1810年代の終わり頃から1820年の初頭にかけて、ジョセフは宗教についてさらに揺れ動いていると述べ、自分が救われないのではないかと不安になり、答えを見つけることを決意しました。けれども伝道集会の熱心さは1817年には衰退していきましたが、若いジョセフの思いはそうではありませんでした。彼は自分がすべきことについてずっと祈り、考え続けていました。家族も分裂し、母親と兄弟の何人かは長老派教会に入り、父親はどこにも入らないという状況でした。家族が教会に行っているときは、父親とともにジョセフは家に残りました。やがて若いジョセフはメソジスト教会に傾き、少年たちのための討論クラブにも入りました。

聖典をよく勉強した少年時代のジョセフ

少年時代のジョセフ

 最初の示現

ジョセフ・スミスが14歳だった1820年の春、パルマイラの異なる教会の様々な集会に出席しながら、多くの基本的なことについて宗派間には大きな混乱がありました。ジョセフは次のように述べています。

「わたしはどうしてよいか分からず、また自分がそのときに持っていた知恵よりも深い知恵を得られなければ、どのように行うべきかまったく分からなかったからである。それというのも、様々な教派の教師たちは同じ聖句を異なって解釈し、その結果、聖書に訴えて疑問を解決することへの信頼をすべて打ち砕いてしまっていたからである。」(ジョセフ・スミス―歴史1:12

ジョセフは後にヤコブの手紙1:5を読みました。そこには「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」とありました。ジョセフ・スミスはこの聖句を読むと「それはわたしの心の隅々に大きな力で入り込んでくるように思われた。もしだれか神からの知恵を必要とする者がいるとすれば、それは自分であることを悟〔った。〕」(ジョセフ・スミス―歴史1:12)のです。

ヤコブが指示しているように自分がすべきことについて神に尋ねるという結論に達したのです。ジョセフ・スミスは真理を知りたかったのです。ジョセフと家族は信仰深い環境で生活していました。開拓者すべてが教会の会員ではありませんでしたが、ほとんどは宗教心を持ち、神を信じ、奇跡が起こることを信じていました。民間の魔術への信仰も強かったのですが、ジョセフ・スミスと家族はこれらの迷信を信じたこともありましたが、最終的にはジョセフ・スミスは神の力への信仰を支持して迷信を拒絶したのでした。ジョセフ・スミスの神への信仰は強く、1820年の早春のある日、彼はどの教会に加わるべきか、そして悩んでいた自分の罪をどのようにして赦していただけるか祈るために家族の所有する森に入りました。

何が起こったかはジョセフ・スミスの自らの言葉が一番如実に表しているでしょう。

「わたしは前もって決めておいた場所に人目を避けて行き、辺りを見回し、自分一人であることを確かめると、ひざまずいて、心の願いを神に告げ始めた。わたしがそうし始めるやいなや、すぐにわたしは何かの力に捕らえられた。その力は完全にわたしを圧倒し、わたしの舌をしびれさせるほどの驚くべき力を振るったので、わたしは物を言うこともできなかった。深い闇がわたしの周囲に集まり、一時はあたかも突然の滅びを宣告されたかのように思われた。しかし、わたしは自分を捕らえたこの敵の力から救い出してくださるようにと、あらんかぎりの力を尽くして神に叫び求めた。すると、わたしが今にも絶望し、破滅に身を任せようとしたその瞬間、すなわち想像上の破滅ではなく、目に見えない世界から来た実在する何者かの力、わたしがこれまでいかなる物にも一度も感じたことのないほどの驚くべき力を持った者の力に身を任せようとした瞬間、この非常な恐怖の瞬間に、わたしは自分の真上に、太陽の輝きにも勝って輝いている光の柱を見た。そして、その光の柱は次第に降りて来て、光はついにわたしに降り注いだ。

それが現われるやいなや、わたしはわが身を縛った敵から救い出されたのに気づいた。そして、その光がわたしの上にとどまったとき、わたしは筆紙に尽くし難い輝きと栄光を持つ二人の御方がわたしの上の空中に立っておられるのを見た。すると、そのうちの御一方がわたしに語りかけ、わたしの名を呼び、別の御方を指して、『これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい』と言われた。わたしが主にお伺いしようとした目的は、自分が加わるべき教派を知るために、すべての教派のうちのどれが正しいかを知ることであった。そこでわたしは我に返って物を言えるようになるやいなや、わたしの真上で光の中に立っておられた方々に、すべての教派のうちのどれが正しいか(当時は、すべての教派が間違っているということなど、わたしの心に思い浮かびもしなかったからである)、また自分はどれに加わるべきかを伺った。

すると、それらのどれにも加わってはならない、すべて間違っているからである、とのお答えであった。また、わたしに話しかけられた御方は、彼らの信条はことごとくその目に忌まわしいものであり、信仰を告白するそれらの者たちはすべて腐敗しており、『彼らは唇をもってわたしに近づくが、その心はわたしから遠く離れている、彼らは人の戒めを教義として教え、神を敬うさまをするけれども神の力を否定している』と言われた。その御方は再びわたしに、それらのどれにも加わることを禁じられた。また、ほかにも多くのことをわたしに言われたが、今はそれを書くことができない。わたしは再びわれに返ると、自分が天を見上げて仰向けに横たわっているのに気づいた。光が去った後、わたしには力がなかった。しかし、間もなくある程度力を取り戻したので、家に帰った。」(ジョセフ・スミス―歴史1:15-20

ジョセフスミスが神とキリストにまみえる。

ジョセフ・スミスと天父とイエス・キリスト

ジョセフは家に帰り、最初は示現を秘密にしていました。家族にはどの教会も入らないということを自分でわかったと伝えました。しかしながら教会の集会には出かけ、地元の聖職者たちと宗教の事柄について話し合っていた。今日、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の会員はこの出来事を「最初の示現」と呼んでいます。これはジョセフ・スミスの預言と啓示の使命の始まりでした。

ジョセフがこの聖なる体験を他の人に伝えると、その地域で多くの論争を生みだしました。聖職者たちは彼には近づかないように人々に警告し、神はもう啓示を止められたので、示現は悪魔のしわざであると言いました。ジョセフは次のように述べました。

「当時、真剣に考えさせられ、またそれ以来しばしば考えさせられてきたことであるが、十四歳を少し超えたばかりの名もない少年、それも日々の労働によってわずかな生活費を得なければならない定めに置かれた少年が、当時最も評判の良い教派に属する偉い方々の注意を引き、最も激しい迫害と悪口雑言を浴びせようとする思いを彼らの心中に起こすほどの重要人物と思われようとは、何とも不思議なことである。しかし、不思議であろうとなかろうと、それは事実であり、しばしばわたし自身にとってひどい悲しみの種となった。」(ジョセフ・スミス―歴史1:23