天使モロナイの訪れ

それからの数年間、ジョセフ・スミスと家族はその地域でたくさんの偏見や迫害に直面し、ジョセフの家族に日雇いの仕事を与えない人まで出てきました。自分の畑からの作物は十分ではなかったので、これは財政的な痛手となりました。さらに悪いことに、1823年の11月には家族の一番の働き手の一人の長男アルビン・スミスが他界しました。これは家族全体にとって大きな悲しみであり、特にジョセフ・スミスにとってはそうでした。彼は兄を非常に尊敬し、愛していたからです。

アルビンを亡くした頃、ジョセフは自分の心の状態について心配になってきました。彼は3年ほど前に荘厳な示現を見ましたが、そのときから神から離れてしまったように感じ、今までの仲間とはあまりうまく行かなくなってしまったので、そのかわりにその地域の騒々しい仲間と付き合うようになりました。後の彼の言葉によれば「大きな罪、憎むべき罪」を犯したわけではなく、「軽率で、時には陽気な仲間と交わるなどして、神から召された者が当然保つべき性質に一致しない行動をした」(ジョセフ・スミス―歴史1:28)ことで罪の意識がありました。

天使モロナイがジョセフに教える

天使モロナイの訪れ

1823年9月21日の晩、ジョセフは部屋でひざまずいて祈りました。祈っていると、ベッドの横の彼の上に光が現われました。ベッドの横の空中に白い衣を身にまとった方が立っていました。その方は神から送られた方で、名前をモロナイと言い、ジョセフ・スミスが神の預言者となり、神のための業を完了するよう召すために神から遣わされたと言いました。また金の版に刻まれた本がパルマイラの近くの丘に埋められていることを伝えました。この記録には神の預言者たちが古代アメリカ大陸の住民たちに教えたイエス・キリストの完全な福音が含まれていました。モロナイはまたジョセフが召されて行う業について伝えましたが、ジョセフはそのときはほとんど理解できませんでした。モロナイがその言葉を終えるとジョセフの前から消えてしまいました。その晩モロナイはその後二回ジョセフ・スミスに現われ、同じメッセージを繰り返すとともに、ほかの言葉も付け加えました。彼はジョセフに忠実であるよう、そしてその記録を金銭的なことのために使わないように、また神が許した人にしかそれを見せてはいけないことを勧告しました。三度目に天使が現われて、天に昇って行ったとき、陽が昇りました。ジョセフはベッドから起き上がり、いつもの仕事をしようとしましたが、力が無くなってしまっていました。父親は息子が具合悪そうなのに気づき、ジョセフに家に帰るように言いましたが、ジョセフは農場の囲いを超えようとしたときに倒れてしまいました。目が覚めたとき、同じ天使がまた彼の上の空中に立っていました。天使は示現について父親に話すように告げました。ジョセフがそのようにすると、父親はその示現は神から来たものであるので、丘に行き、天使に言われた通りにするように言いました。

心の中で見た丘の示現に導かれ、ジョセフはすぐに記録の埋まっている場所を見つけることができました。ジョセフはその場所の印である大きな石のまわりの泥をよけて、記録と他の神聖な物の入った箱を開けました。天使が再度現われて、その記録を取り出すときはまだ来ておらず、記録を取り出して翻訳する前の準備としてたくさんのことを学ぶ必要があると告げました。天使はそのときが来るまで毎年9月22日にその場所に来るように告げました。

宝探しと結婚

それからの数年間ジョセフは毎年同じ日にその丘にやって来ました。天使モロナイからその都度さらに指導を受けました。しかし、そのほかは家族の農場や労働者として雇われて熱心に働きました。彼の示現のせいで町の人々から嫌がらせや嘲りをずっと受けていましたが、家族は彼がいつも正直であったことを知っていたので彼の味方でいました。

1825年には、ジョサイア・ストウェル(ストールとも書く)という人が埋められた宝を探す手伝いをさせるためにジョセフを雇いました。ニューヨーク州北部はスペインや海賊の宝が埋まっているという言い伝えがたくさんありました。ストウェルは天使モロナイと埋められた金版の示現が示すように、ジョセフが隠された物を見つける能力があるという噂を聞きつけて、ジョセフを探し出しました。ジョセフは井戸掘りをするときに水脈を探し出す並外れた能力を持つことでも知られていました。宝探しは農業やお店よりは下に見られる仕事でしたが、ジョセフが育った場所ではよくある仕事でした。ジョセフ・スミスによれば、天使モロナイは後にジョセフに金の採掘や宝探しの仕事にはつかないように命じました。なぜなら彼らは強欲で邪悪な人々であり、ジョセフはもっと気高い仕事につくことになっていたからです。この1825年のストウェルとの旅の後、ジョセフは金の採掘をしている人々には再び決して近づくことをしませんでした。

ジョセフの妻、エマ スミス

エマ スミス

 

しかしながら、ジョセフと父親は家族のためにお金を必要としていたので、彼らは1825年の終わり頃、ペンシルバニア州ハーモニーのスペインの宝探しのためにストウェルに雇ってもらいました。何の成果もなくひと月たった頃、ジョセフ・スミス・シニアと息子はもうこの仕事をあきらめるようにストウェルを説得しました。その旅はまったく実にならないものではなかったのです。というのは採掘している間、宿としていたヘール家でジョセフは美しく、教養のある娘のエマに出会ったからです。彼女とは1827年の1月に結婚しました。不運なことにしばらくの間、ストウェルの親族がだまされたと感じ、1826年にジョセフ・スミスに平和を乱し、「水晶占い」をしたかどで裁判にかけました。聴聞会で、ストウェルはジョセフ・スミスを弁護し、彼が優秀で、熱心に自分の仕事をする少年であると宣言し、ジョセフは宝探しは嫌いであったが、仕事が必要だったと述べました。正式な裁判は引き受けられず、単に判事の前での聴聞だけに終わりました。なぜなら証人は裁判が正当な権利があるか決定するために調べられたのです。最終的にジョセフは解放され、ストウェルの所とあちこちの粉ひき小屋で働き続けました。1827年の初頭にエマ・ヘールと結婚して間もなく、新婚の二人はジョセフの両親と住むためにパルマイラに戻りました。

預言者としてのジョセフの生涯

それからの3年間、ジョセフは丘から取り出した記録を翻訳しました。翻訳したものは1830年にモルモン書として発行されました。1830年4月6日にはジョセフは神の命により、末日聖徒イエス・キリスト教会を組織しました。ジョセフはバプテスマのヨハネから、またペテロ、ヤコブ、ヨハネから神の御名のもとに行動する力と権能である神権の力を与えられました。ジョセフは後の生涯を神が組織するように召した教会を導くために費やしました。この期間はモルモン書と教会の設立にさらに深く取り組んだときでした。

ジョセフ・スミスの生涯をモルモン教との関わり合いから離して書くのは困難なことです。なぜなら教会へのかかわりはあらゆる面で彼の人生になっていたからです。彼は教会の組織を巻き込む地上で神の王国を建設するためにすべての時間を捧げました。

ジョセフの残りの生涯は教会を確立し、擁護することに費やされたと言えば十分です。ジョセフは常に個人的に教会とその会員(聖徒)、濡れ衣、不当な留置と取り組んできました。かつては友達だった人々が彼を裏切り、彼の評判を貶めようとしました。差別や誤解により暴徒が再三にわたり聖徒を攻撃し、家やその地方から追い出しました。教会の会員はニューヨーク、オハイオ、ミズーリ、イリノイから追い出され、ついに平和を求めてその土地を離れました。彼らはソルトレーク盆地に定住しましたが。彼らがイリノイを出てほぼすぐにユタ準州となったので、彼らは再び合衆国の一部に住むことになったのです。彼らはだれもしたくなかった砂漠をばらのように花咲く地にしたのです。