世界が、暗く困難で、混沌とした時代に突入していることは、疑いの余地もないことです。メディアが、テロ攻撃、死、犯罪、否定的な点、政治不安にばかり焦点をあてると、ときどき、希望と平安を見い出せる場所など、どこにもないのではないかと感じます。もう無理だと絶望してしまうことがあるかもしれません。

 

わたしたちはなぜ苦悩を経験するのでしょうか?

「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、…主はしえたげられる者のとりで、なやみの時のとりでです。」(詩篇46:1-3;9:9)

死すべきこの人生における変わることのない事実の一つは、困難は繰り返されるということです。苦労と苦悩の試練は何度も起こります。ある人はかつて、金持ちも貧しい者も、学問のある者もない者も、信じる者も信じない者も共通して、問題に直面することは明らかであり、これは彼らを結び付ける共通の特徴であると結論づけました。自分はいい人だから、問題のない人生を送るのは当然だと思うことは、自分は菜食主義者だから、雄牛は自分を襲うことなどあり得ないと思うのと同じであると、ある人気作家は言いました。

「もう無理だ」と思う困難な試練は訪れますが、実際にそのような時が来るときに、それは「なければならない」ものであり、この世界が創造される以前、天上の大会議で、わたしたちは試練と精錬の時を経験することに合意したことを思い出させてくれるでしょう。 そのときにわたしたちは、困難なときを受け入れ、解決し、堪え忍ぶのは、わたしたちが成長するために払わなければならない代償であると教えられました。そしてわたしたちは、永遠に成長することを約束したのです。

したがって、困難ではないほかの状態を望む日もあるかもしれませんが、わたしたちの現世の旅路には、さまざまな選択と別の選択肢、機会と障害、爽快な高揚感とときに痛烈な落ち込みが織り交ぜられているものなのです。

もちろん、この計画の中には最高の安心を与える、絶対確実な保護がはじめから取り決められていました。わたしたちが望むならば、わたしたちが犯すすべての過ち、すべての罪、すべての試練、すべての落胆、病気、そしてわたしたちすべての者が最終的に経験する死に対し、確固たる保障があります。この救いは、メシヤによってもたらされます。メシヤは、神の御子である主イエス・キリストです。主は、肉体的、霊的の両方において、「その翼に、いやす力を備えて」来られます。主のメッセージは、希望と平安です。主の贖いの犠牲は、アダムから始まりこの世の終わりまでのすべての男性、女性、子供を死と地獄から救います。

主は、わたしたちの束縛と苦しみのひもを断ち切り、わたしたちを自由にしてくださいます。

そうです。人生には、ストレスも悲しみもあるでしょう。天からの祈りの答えは、いつもわたしたちが望むようなものではないかもしれませんが、神は常にわたしたちが必要な答えを与えてくださるでしょう。そして「もう無理だ」と思うときに主は、力と霊的ななぐさめの両方を与えてくださいます。

 

神があなたを守られることを覚えていてください。

わたしが呼び求める日に、わたしの敵は退きます。これによって神がわたしを守られることを知ります。(詩篇56:9)

わたしは、すべての自信、すべての慰め、すべての強さ、すべての安全は、「これによって神がわたしを守られることを知(る)」ことから始まると信じています。

その真実を、わたしたちの心に焼きつけ、わたしたちの脳の組織全域に太文字で書いておかなければなりません。そして決して忘れてはなりません。古代のイスラエルの民が、かもい(出入り口の上枠の横木)と入り口の二つの柱にしるしを付けた、過ぎ越しの祭りの血のように、わたしたちは、神がわたしたちを守られることを思いおこしてくれる比喩的なものを、絶えず目前に、そして常に心に持っているべきです。

神は、わたしたちを愛しておられます。神は天の父であられます。神は、わたしたちを見守るときに、決して眠ったり、まどろむことはありません。神の業と栄光は、わたしたちを救い、昇栄させ、神のみもとへわたしたちが無事に戻れることを見とどけることです。

主がなさるすべてのことは、究極の目的を支持するためです。その目的を達成するためには、いかなる精錬や試練を要求されようとも関係ありません。春に花のつぼみが膨らむことや、無数の銀河系の広がりにいたるまで、神の威光の規模と万物のすべての量子物理学を認めながらも、神のただ唯一の探求は、神の子供たちを祝福し昇栄させ、すべての人類を(彼らが望むならば)救うことなのです。

そして使徒パウロが、後に次のようにたずねたようにわたしたちは言うことでしょう。「もし、神がわたしたちの味方であるのなら、だれが[または、何が]わたしたちに敵し得ようか。…わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りある。」

 

「もう無理だ」と思うときに、神がわたしたちに覚えておくよう求められる4つの事柄。

主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。

わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしど(寝床)をただよわせ、わたしのしとね(布団)をぬらした。(詩篇6:2-4,6)

わたしたちは皆、骨だけでなく魂も「悩み苦しみ」、泣き叫ぶときがあります。それは1回だけでなく、しばしば起こることもあります。そしてときに、その悩み苦しみは延々と続きます。そのような時に、わたしたちは預言者ジョセフ・スミスがリバティーの牢獄で叫んだように「主よ、いつまで」と叫ぶのです。預言者ジョセフも、見捨てられたような気持ちを感じ、「おお、神よ、あなたはどこにおられるのですか。あなたの隠れ場を覆う大幕はどこにあるのですか」と叫びました。

ときにこのような悲痛がやって来るのは、人生そのものの悩みのためですが、時には、「罪悪を行う人」によりもたらされます。それでもなお、わたしたちは悲しみのきわみに陥ったり、「不当な扱いと不法な虐げ」に苦しめられたりしたとしても、神はわたしたちとともにおられ、「あなたの心に平安があるように」とささやいておられることを覚えている必要があります。

このような苦しいときに、わたしたちが平安でいられるよう励ますために、主は以下の事柄を覚えているよう望んでおられます。

まず最初にわたしたちの逆境と苦難は、つかの間にすぎません。試練の最中にいるときには、それは長く、または永遠に続くように思えますが、終わりは来ます。わたしたちはしばしば、この世での困難の中で唯一できることは、ただしがみついたり、「滅びのあらしの過ぎ去るまでは[神の]翼の陰」に隠れることだけだったりします。困難と苦境のときは過ぎ去り、決して去ることはないと思えた悩みもなくなります。ですから、耐えることは単なるストア主義ではなく、そこには希望があります。

2番目にもし試練をよく耐え忍ぶならば、神はわたしたちを高めてくださり、わたしたちに危害を与えようとする人間であろうと、単に悲しみと悩みをもたらす人生の浮き沈みであろうと、わたしたちは敵に勝利することでしょう。

3番目にわたしたちには友人がいることを覚えておく必要があります。友人は、なんとありがたいものでしょう!預言者ジョセフは、友人たちが傍らに立っていて、「温かい心と親しみのある手」をもって、再び彼を歓呼して迎えることを思い起こしました。

4番目に絶望するときには、自己憐憫に陥りがちですが、是が非でもそれに抵抗すべきです。自己憐憫は、触れるもの全てを傷つけます。わたしたちには、非常に多くの祝福があり、この世には、わたしたちよりもはるかに困難な状況に向き合っている、非常に多くの人々がいます。

これらすべては、わたしたちの涙をぬぐいとってくれる助けになるでしょうが、涙を流すことがないという意味ではありません。いつの日か、神は大きな勝利を収められ、「人の目から涙を全くぬぐいとって下さ(り)、もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもな(く、)先のものが、すでに過ぎ去」ることでしょう。いつの日か、苦悩は過ぎ去ります。

この記事はもともと LDS Livingの編集者によって書かれ、ldsliving.comに”Elder Holland: 4 Things God Wants Us to Remember in Times of Trouble and Darkness” の題名で投稿されました。
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