当時わたしは将来有望な大学生でした。伝道に出ることを楽しみに、既に宣教師になるための願書の記入も始めていましたし、人生はこれからというところでした。しかし、突然わたしは病院にいたのです。人生のどん底に。

 

人生のどん底を経験する

なにが起きたのか思い出せませんでした。誰かがわたしにこう説明しました。

「君はどこかの天然温泉でダイビングをしていて溺れたんだ、救助されて、ヘリコプターでここまで運ばれたんだよ。二日間も意識不明だったんだ。」

溺れたとき、心臓が停止し、脳に酸素が行き届かない状態が4分間続きました。それは長すぎました。臨床的にはわたしは死亡していました。

そんなことは信じられませんでした。

神経科の医師がわたしの病室に来て、今年は何年か、大統領はだれか、今日は何曜日か、などの簡単な質問をしました。彼が病室から出て行くと、わたしは両親にむかって「余裕だね。異常なし。」といった具合でにやっと笑いました。わたしが理解していなかったのは、すべての質問の答えを間違えていたということでした。翌日、神経科医はまたやって来て、わたしに同じ質問をしました。その時は、質問の半分を正しく答え、わたしはやっと、自分の脳にとても深刻な問題があることに気がつきました。

生まれて初めて自分であることを失ってしまい、両親に「もう自分は賢くないんだ」と涙を流しました。心がズタズタになった瞬間でした。

わたしの短期記憶はしばらくすると回復しましたが、前頭葉が深刻に負傷していました。前頭葉は、感情のバランスや衝動のコントロール、決断を下すこと、社会的行動などを司り、脳の中で自分の性格を定義する部分です。わたしのすべてが変わってしまいました。精神的に、感情的に、そして霊的にも。短気になり、優しくなくなってしまったのです。

しばらくして退院すると、もとの生活に戻ろうとしましたが、物事は同じではありませんでした。ミッションペーパーの記入を終わらせ、伝道に出ましたが、半年後に帰還しました。他の人にはわたしの苦闘は理解しがたいことでした。はたから見るとわたしは普通に機能しているように見えたのです。「伝道に戻れば?」とか「もうちょっと頑張れたんじゃない?」とよく言われました。みんな、脳損傷のことなんてわかってくれません。

いくつかの段階を経験しました。最初の数年間、わたしはとても怒っていて、あらゆる見方に欠けていました。事故が起きなければよかったのに、と思っていました。事故のせいで人生がめちゃくちゃになってしまったと思っていました。

トンネルの先に光が見えませんでした。霊的にも感覚がなくなり、何の繋がりもなくなっていました。

そうにも関わらず、心の中ではまだ天のお父様がわたしのためにそばにいてくださる、と感じていました。孤独や怒り、霊的な不具合を感じている時でも、神様がわたしを見捨てるなんてことは信じられませんでした。そしてわたし自身も神様を離れることなどできませんでした。それでも、わたしにはこの辛い経験をしなければならなかった意味は理解できませんでした。

 

事故からの回復

事故を乗り越えるために、自分ひとりで何年も苦しみました。間違ったことに、わたしは強いので他の人の助けはいらないと信じるようになっていたのです。事故の前の自分に戻ろうと必死でした。神様を生活の中心にして、自分の意志より彼の御心を優先したときに、やっと回復への一歩を踏み出すことができました
事故から7年近くが経ちます。今でも後遺症は残っていますが、回復の過程を楽しむことにしました。回復する中で、神様の計画についてよりよく理解するのに助けとなったことを学ぶことができました。

  • 人は、人生で辛いことを経験します。それは、愛する人の死かもしれないし、失恋、体の病気、もしくは精神的、感情的な障害かもしれません。生きるのは大変なことです。時々、この世に生きる大変さを忘れてしまうことがあります。これらの試練やそれを乗り越える過程でお互いを助け合うことはとても大切なことなのです。まわりの人に思いやりを示すことが必要です。
  • 人生における試練や困は、時間と忍耐、大きな信仰と神様を信頼することで乗り越えることができます。一晩にして奇跡が起こることはめったにありません。それは神様がわたしたちを愛しておられないからでも、わたしたちに幸せになって欲しくないからでもなく、すぐに奇跡を起こしてしまうと人生における困難からわたしたちが学べなくなってしまうからです。
  • 神様を信頼して、彼を生活の中心にするというのは、口で言うのは簡単でも実際にするのは難しいことです。でも、イエス・キリストのは、人生の試練への究極の解決策です。
  • 自分の持つ理想を忘れて、神様の御心を受け入れることを学ぶときにわたしたちはキリストの本当の弟子になることができます。わたしは常に、どんな人になるべきかということばかり心配していましたが、神様はわたしたちがなるべき人になれるよう、努力し続け、成長し続けてほしいと思っています。その過程で、わたしたちは贖いの本物の、そして実用的な美を見出すのです。

今ではあの事故は悲劇だったとは思いません。あれから7年でたくさんのことを学び、困難を通して天のお父様のことを本当に知ることができました。わたしのケースでは、人生のどん底が一番大きな祝福となりました。そしてそのおかげでわたしは最高の自分に成長できるのだと知っています。

罪の持つ癒しの力についてはキャロル・M・スティーブンが「癒し手であられる主」というお話の中で話しています。

 

 

 

この記事はもともとMichael Rexによって書かれ、lds.org投稿されました。