高校時代に大変興味深い授業がありました。遺伝子学の授業です。わたしは養子なので、わたしが遺伝で受け継いだ顔立ちや特徴についてずっと興味がありました。 夕食を食べながら家族との似ている点を目にすることができる、まわりの友達とは違って、 わたしはそのような比較とは縁のない環境で育ちました。そして、身体的な特徴だけではなく、多くの行動も、環境だけに左右されるものではなくて、遺伝と繋がっているのだと発見できたのは素晴らしいことでした。

遺伝子学で興味をそそられるのが、連鎖形質の発見でした。例えば、薄毛と、赤緑色盲はどちらも劣性の性別連鎖形質です。どちらもX染色体に見られ、Y染色体にはありません。しかし、男性にはX染色体しかないため、女性よりも、男性が色盲や薄毛を持つ可能性が高いのです。

科学者たちは他にも、耳あかや乳がん、耳の奇形や腎臓の異常など、少し変わった分野での関係性を発見しています。動物にも関連性を見つけることができます。オレンジ色のぶち猫はオス、三毛猫はメスの傾向にあることや、青目の白猫は耳が聞こえない場合が多いことなどです。

試練は特別な機会へと繋がっている

しかし、わたしには、この理論を実際に経験できるものとする持論があります。わたしたちに起こる全ての試練は特別な機会に繋がっていると思います。わたしたちは、なにか困難に直面すると、その問題にばかり気を取られ、その困難からくる成長する機会に目を向け損ねる傾向があります。

問題や逆境を望む人はだれもいません。しかし、それと同時に、わたしたちは、試されることなく、かすり傷一つないまま人生を終えたいと望むのは世間知らずな考えであることもわかっています。ですから、自然と起こる逆行にむけて備えをすることは賢いことです。そして、もちろん、わたしたちは深刻な罪を犯すことや、ばかげた選択をして、余計な苦しみを加えないように努力します。

備えのうちの一つは「もしもの時に備えての貯蓄」です。それは、非常時への備えや、災害を避けるための入念な計画として知られています。それは、悲観論ではなく、現実論です。出産前の入院準備のようなものです。冬になって車のタイヤを雪用に変えたり、夏に日焼け止めを塗るようなものです。

しかし、人生がうまくいくよう細心の注意を払ったにもかかわらず、人生はそう上手くいくわけではありません。職を失ったり、健康状態が悪くなったり、子供が反抗したり、経済状況が悪化したり、交際が解消になったり。絶対に起きてほしくないと望んだことが自分の身に降り掛かるものなのです。

これらは試しの時であり、平静を保って、 神様がこの試練を通して自分に何を学んでほしいのかと、たずねる時です。今まで以上に信仰を使い、愛にあふれた天の御父に頼る時です。今は、戦いの真っただ中にいるということを思い出し、天のお父様を味方に選ばなくてはならない時です。

そして時々、わたしたちは、なぜ飛行機が欠航になったのか、失業したのか、婚約が破棄になったのかなどを説明する素晴らしい関係性を見いだすことができます。きっと神様はわたしたちにもっと良いものを備えているのでしょう。それか、神様は、わたしたちが地上に来ることによって得られる特質を発展させるよう望んでいるのかもしれません。

わたしは、モルモン書に出てくるアンモンという人が、ラモーナイ王の信頼を得た話が大好きです。レーマン人の泥棒たちが、アンモンが番をしていた家畜たちを追い散らすとおどしました。もしそのようなことが起きたら、家畜の番をしていた王の僕たち皆が殺されてしまうかもしれないという大事態なのです。にも関わらず、アンモンは喜びました。彼は、現在の危機の先を見越して、危機と繋がっている機会を見ることができました。その機会とは、王への無私の奉仕によって、完璧な伝道の機会に繋がることでした。

わたしたちは、このような考え方をするでしょうか?職場でなにかトラブルが起こったとき、同僚たちは助かり、誠実の輪が生まれるというような思いで対応するでしょうか?一歩踏み出して、助けようとするでしょうか?それとも縮んでしまうでしょうか?わたしはどちらの反応もしたことがあります。どちらの選択が喜びをもたらし、どちらが恥をもたらすかは言わなくてもおわかりでしょう。

旧約聖書で、ヨセフは囚われの身になったとき、それを夢の解釈をする機会として使い、究極には、それが彼がエジプトを飢饉から救う英雄的な役割へと導いたのです。

わたしたちは皆、誰かしら、永遠の観点を持って、過ちを犯した人を赦せ、他の人がより寛容に、より慈愛深くなるよう鼓舞するような人々を知っています。このような優れた聖徒のような人々は、自身の人生において祝福を受けるだけではなく、彼らのおかげで他の人がそのような人格を作り上げることができる宗教とはどんなものか知りたくなります。

逆境を逆手に取り、モチベーショナルスピーカーになる傷痍軍人(任務中に怪我をし身体障害者となった元軍人)のことが頭に浮かびます。彼らは、受けた試練のおかげで、その経験なしでは不可能であった次元でたくさんの人々の心に届き、向上させます。

幼い五人の子供と共に夫に捨てられ、それでも根気づよく生き抜く方法を見いだし、子供たち全員が後に必要になる、揺るぎない信仰の模範を示す女性のことが頭に浮かびます。彼女の敗北は大勝利へと変わりました。

今のあなたの試練について考えてみてください。母が衰え、骨折し、アルツハイマーを発症し、とても手のかかる状態になったのをこの目で見たときの激しい苦痛を思い出します。そう、本当に困難なことです。でも、保健従業員たちへのなんという伝道の機会をくれたでしょうか。わたしにどれだけ必要だった忍耐に関する教えを学んだでしょうか。子供たちになんと良い見解をくれたでしょうか。これらはわたしたちの身に起きた成長の贈り物です。

あなたの逆行に対する反応から、子供たちはなにを学んでいるでしょうか?彼らが大人になったとき、あなたが試練を乗り越える姿を見たおかげで、彼らも不屈の決意の精神を持つでしょうか?彼らは祈りと断食についてもっと学ぶでしょうか?彼らは自身の旅路に神様を招くでしょうか?どんな試練も、教える機会をたくさん与えてくれるのです。

わたしたちの不幸には、わたしたち自身のためにも、まわりの人のためにもなる機会が繋がっていると、心から信じています。試練が訪れたとき、単純に深呼吸をして、永遠の目を持ち、現在を見越して、その試練が後々どんな影響をもたらしてくれるかに目を向ける必要があります。わたしたちは、成長するためにこの地上にいます。そして、その成長は時折、抵抗によってのみ起こるのです。もしかしたら、あなたの証をのべ、神権の祝福を受け、まわりの人に助けを求めることによって彼らに奉仕の機会を与えるべきときなのかもしれません。もしかしたら、生活を整えたり、神殿に戻ったり、壊れた関係を修復したりするときかもしれません。もし試練の度に進歩すると心から信じるのなら、わたしたちは、連鎖している機会を探す必要があります。その機会はいつだってあるのですから。

 

この記事はもともとJoni Hiltonによって書かれ、ldsmag.comに“What Opportunities are Linked to Your Struggle?”という題名で投稿されました。