あなたの霊的弱さが、実際はあなたの助けになっていると考えたことはありますか。末日聖徒イエス・キリスト教会(時々「モルモン教会」と呼ばれてしまう)が神聖なる聖典として大事にするモルモン書の中に、わたしにとって常に際立っている聖句があります。
もし人がわたしのもとに来るならば、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために、人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して、わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。(エテル12:27)
私自身や私が愛する人たちの人生で起こるのを見てきたので、これが本当だと知っています。私にはまだ強さになっていない多くの弱さがありますが、人生は進行中の作業であり、私たちは「教えに教え、訓戒に訓戒を加えて」行くことができるだけです。(第2ニーファイ28:30)
ランドール・J・ブラウンによって書かれ、セダー・フォート・インクによって出版された「キリストを経験する:救い主への個人的な旅」(p10-12)で、ブラウンは、弱さは実際に私たちを助けるという教義と、私たちがこの原則を適用する上で助けとなる個人的経験を分かち合っています。
弱さにおいて栄光を経験する
霊的傷と征服できない弱さを克服する自分自身の葛藤を通して、自律が、救い主を経験することから自分を遠ざけているという事実に私の目が開きました。私は救い主の恵みに対してバリアーを張った状態で向かい合っていました。使徒パウロは彼の経験から、弱さは謙遜と主の強さに頼ることにおいて重要な役割を担っていると学びました。彼はまた、願ったからと言って主はすぐには弱さを取り除かれないことを学びました。主の使徒としてパウロは、肉体における棘を与えられ、彼はそれを取り除くよう主に3度願いました。パウロは、主が私たちの人格を型に入れ、形づくることを、より大切にしていると教えられました。
主は私たちに、恵みによって私たちの弱さは偉大な強さになると語られました。この過程は常に、主の時間軸に沿ってなされます。しかしそれまでの間私たちには、もし私たちが謙遜ならば主の恵みは十分であるという約束が与えられています。主がパウロに語られた言葉は、コリント人への第二の手紙に記されています。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」(2コリント12:9)要するに主はパウロに「いいえ、パウロ。あなたは日々私に頼っていると気付けるようにこの弱さが必要です。」 と言っているのです。BYUウィメンズ・カンファレンスの演説で、ロバート・ミレットはこう言いました。
パウロが主に肉体の棘を取り去るよう三度懇願したと述べた時、3回の祈りだけを指していたのではなく、決してもたらされなかった特定の祝福のために長期間におよぶ霊の苦闘と苦心をした、3つの季節にわたる祈りを指していたと思いたいです。実に彼が示唆しているように、親密さや敏感さ、神に対する知識、痛みと苦しみによってもたらされる聖められた強さなど、他の種類の祝福が来ました。
単なる死すべき体の人間がキリストの恵みとして知られている可能にする力を与えられたのは、自信を失い、自分には何もないこと、恐ろしいほど自分の限界を感じ、信仰の壁に突き当たっていたときでした。救い主がモロナイに説明したように、私たちが(特定の弱さや個人の罪に限らない)弱さや死すべき人間としての限界を認め告白し、服従するとき、弱さから強さへの変質が始まります。(「できることすべての後に」、BYUウィメンズ・カンファレンス、1998年5月)
著者、ステフン・ロビンソンは価値ある見識を付け加えています。
まるで福音が、メリット・バッジを得て、完全になるまでリストにある事柄をしていく日の栄のイーグル・スカウト・プログラムであるかのように行動する代わりに、私たちは主に頼っていて、また主に頼るよう訓練されることを気付かせるという目的のために、時に弱さが与えられます。
私たちの弱さを通して、自分の限界と困難すべてに対する勝利をすぐに与えるよう高慢に要求するのでなく、私たちの勝利がキリストによってもたらされ、私たちは彼に頼り、彼が私たちの弱さを強くしてくださると信頼することに満足しなければならないと学びます。(「彼の翼の下に癒され」、2002BYUウィメンズ・カンファレンス)
私たちの弱さは主に向かわせてくれるだけでなく、他人の弱さに対してより思いやりを持てるようにもしてくれます。もし私たちが、キリストがそれらの弱さを通して働きかけられるようにするならば、私たちの弱さは実に、キリストのような特質と神聖な性質を発達させる助けとなる贈り物です。私たちの弱さは、思いやりの容量を増やすこともできます。時に私たちは、sympathy(同情)とcompassion(思いやり、共感)を混同しますが、二つの間には重要な違いがあります。Sympathy(同情)は単に「あなたが経験していることをかわいそうに思います。」と言えることであり、compassion(思いやり、共感)は、「あなたが経験していることがわかります。私も経験したから。」と言うことです。
最近私は専任宣教師として奉仕している息子から電話を受けました。彼は、経験している個人的課題について父親に電話をする許可を、伝道部会長に求めました。彼はその問題を他の誰と話すことも気詰まりに感じましたが、私が同じ課題を経験したことを知っていました。彼の電話が来たとき、私は28年前に自分の父に同じ電話をかけていたので、共感と深い情を感じました。伝道部会長に電話の許可を受けるのがいかに難しく、父親に自分の心配を率直に話すのに勇気がいったか思い出しました。私たちが話すにつれ、私の心は息子への愛で和らぎました。なぜなら彼が経験していることがわかり、彼の私に対する信頼の深さが私の心に触れたからです。
私たちの救い主の経験も同様に違いありません。私たちの試練を完全に個人的に知っておられるので、彼の心も共感と深い情で和らいでいるに違いありません。また、私たちが彼を信頼して、心にある最も深い懸念を御前に持って行く勇気により、深く感動しているに違いありません。また、彼はずっと以前、最も絶望していた時に、信頼して御父を呼び求めたことを思い返すことでしょう。
私たちが主に向き、彼の完全な深い情を経験するにつれ、私たち自身の深い情をより大きくし、主が人々を見るように彼らを見れらるようになります主の得手は、弱さを強さに変えることです。私たちが弱さを通じて得る経験と希望は、同じような葛藤を持つ人々にとても効果的に仕える機会を与えくれます。
他の人に仕えることは、弱さがあることをいとわないことから始まります。自分のガードを下げ、完璧の仮面と取って十分に謙遜であればあるほど、自分自身の葛藤をもっと他の人と分かち合えるようになります。主が私たちを他の人に仕えるために使うことができるようになるにつれ、神が与えられた目的を見始めるでしょう。リック・ウォーレンは彼の本、「目的に導かれた人生」で述べています。「vulnerability(傷つきやすいこと、弱み)は、人の心を引きつける特質です。私たちは謙遜な人々に引き寄せられます。見せかけははねつけますが、真実性は引きつけます。」(「目的に導かれた人生」(グランド・ラピッズ、MI: ゾンダーバン、2002年)p276-77)
私たちが強さを誇示するとき、通常競争と嫉妬を生み出しますが、私たちの葛藤を見せるとき、癒しの関係を始める扉を開きます。
もし私たちが完璧の仮面の後ろに弱さを隠す必要を感じるならば、たぶん私たちはキリストをまだ経験していないのです。私たちが弱さを心から喜ぶ彼の目的を、たぶんまだ見ていないのです。私は今、人生で最も苦しかった時を振りかえり、決して繰り返したくはありませんが、その中で神を見出したことに神をほめたたえることができます。パウロのように、いま私は真に神を喜んで誇ることができます。
イエス・キリストのもう一つの証であるモルモン書を読んで、どのように「弱さを喜んで誇る」ことができるかもっと学ぶようお勧めします。上記に教えられていることが真実であることを証します。そしてモルモン書が真実であり、(聖書のような)神の言葉であり、最も純粋な形であると証します。そのことを知るために、これらについて祈るようお勧めします。私たちには、祈りに応えて下さる愛する天父がいます。
Meet some real Mormons at Mormon.org.
(実際のモルモンに会う)
この記事はアシュリーによって書かれた。
アシュリー・ベルは22歳で、妻、母、BYU卒業生であり、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員です。アシュリーは、ランニング、料理、庭仕事、読書、そして何よりも家族や友人と時間を過ごすことが好きです。