マスク着用についての賛否両論
今は「ポスト真実の時代」って聞くけど、どういう意味か知ってる?ポスト真実というのは、真実よりも信じたい嘘の方が出回って、その嘘が真実だと認識されてしまうことです。
わたしたちのライターのひとりが、パンデミック中にマスクを着用することについて投稿をしました。わたしたちのフェイスブックのページは炎上し、500以上のコメントが寄せられました。人々は、マスクを着用すべきか否かを言い争いました。多くのコメントは乱暴で、人々は一種の「事実」を持ち出し、自分たちの意見を証拠立てようとしました。現役の医者が研究結果の実証を引き合いに出してマスク賛成のコメントをしても、そんなことは重要ではないといった感じでした。マスク反対者たちは、自分たちの事実を守るために猛烈に反論しました。いったいどちらが正しいのでしょうか。両者ともに正しいはずはないですよね。
ポスト真実が理解しづらいのは、人の数だけ意見があるからです。今日わたしたちは、これまでになかった環境の中にいます。ソーシャル・メディアによって、意見を簡単にシェアする環境が作り出されました。人々は、自分の意見をまるで事実であるかのように投稿し、賛成しない人に対してきつい言葉を投げつけます。このような侮辱は人の命を損なう力があります。若者を自殺へと追いやり、人々は職を失い、転職できないようにさせられ、ノイローゼになるなど、悲惨な結末のリストはもっと挙げられます。
モルモン書から学べること
モルモン書は、わたしたちの時代のために書かれたものです。その中には悲しいポスト真実の哲学の例があります。アルマ1章でサタンに騙されたニーホルは、次のように偽りの教義を教えます:
- 教師は皆、人望を得るはずであって、人々によって生活を支えられて当然である
- 全人類は救われ、永遠の命を得る
このように教えがとてもシンプルであったため、ニーホルは富を得ていきました。彼はギデオンを殺害したことで死刑を宣告されますが、処刑される前に白状し、このように自分の行いを認めました。
「自分が民に教えてきたことが神の言葉に反するものであったことを、天地の間で…自分から認めた。」
(アルマ1:15)
言い換えると、彼の教えは真実ではなかったということです。
真実ではない教義の創始者が、教えは間違っていたと告白したにも関わらず、ニーホルの哲学はニーファイ人とレーマン人の両方の村中に広がり、その哲学を守るために殺人が多く起こりました。「ニーホル」の教えの信者は、アマレカイ人とアミュロン人(アルマ24章)、アモナイハの民(アルマ16章)、エルサレムの町の人々(アルマ21章)が含まれます。
その哲学の魅力的な解釈の一つが、「自分たちの行うことはすべて正しい(アルマ18:5)」でした。 ニーホルの宗教を信じる人々は、悔い改める必要はないと信じ、彼らがどんな行いをしてもそれを尊重されることを求めました。ほかの人々から批判されることを嫌い、アルマとアミュレクのような人たちから悔い改めるように言われると、怒りを示しました。
さらにアモナイハに住んでいた人たちはこんなことをしました。
1)ニーホルの間違った教えを受け入れない人を追い出した
2)石を投げつけた
3)老若男女問わず炎の中に投げ入れた
4)政府を崩壊し、ほかの人たちに自分たちの「真実」強制させた
真実がポスト真実へと衰えるとき
ポスト真実の別の例は、礼拝をファッション・ショーのように変えたゾーラム人の「信仰」に見ることができます。彼らは真の信者を追い出し、追い出された人々がジェルションの町に迎え入れられたことに腹を立て、あまりにも怒りが激しかったためニーファイ人に戦いを仕向けました。
アルマとその兄弟たちは、かつては完全な福音を持っていたゾーラム人が、今では全てを失ってしまっていたことを知ると驚きました。アルマとアミュレクの教えを受け入れたいと望んだ貧しい人々は、どうやって証を築き、悔い改めればいいのか分かりませんでした。
アミュレクの例は、人が真の真実を守るためには、大きな代償を払わなければならないことを示す良い例です。
「さて、アミュレクはかつて自分の友であった者たちから拒まれ、また自分の父親や親族からも拒まれたので、アモナイハの地にある自分の金、銀、貴重な品々をすべて神の言葉のために捨てた…
すでにわたしが語ったように、アルマはこれらのことをすべて見てから、アミュレクを連れてゼラへムラの地へ向かい、自分の家に彼を迎えた。そして、艱難に遭っているアミュレクに必要なものを与え、主にあって彼を強くした。」(アルマ 15:16, 18)
福音は真実である
マタイ24:24では次のように書かれています。
「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起こって、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わせようとするであろう。」
ポスト真実は、キリストに従う聖約を交わした選民をも惑わすことができるのでしょうか?
マタイ7:15で、こう書かれています:
「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」
ポスト真実を助長する人々はにせ預言者なのでしょうか?
3ニーファイ11:29-30では次のように書かれています。
「まことに、まことに、あなたがたに言う。争いの心を持つ者はわたしにつく者ではなく、争いの父である悪魔につく者である。悪魔は互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる。
見よ、互いに怒るように人々の心をあおり立てるのは、わたしの教義ではない。このようなことをやめるようにというのが、わたしの教義である。」
ポスト真実は、神が明らかにされた真実に対し、人々を怒らせる原因となるでしょうか?アビナダイは、ノア王の祭司たちに言いました。
「あなたがたは、わたしを殺す力があなたがたにないことを知っている。だからわたしは、自分の伝えたいことを言ってしまおう。わたしはあなたがたの罪悪について真実を告げるので、それがあなたがたの心を刺すことを承知している。そして、わたしの言葉によってあなたがたは不思議な思いと驚きと、また怒りに満たされている。」(モーサヤ13:7-8)
あなたはどう思いますか?以下にコメントをください。
この記事はGale Boydによって書かれ、THIRD HOUR に投稿された記事です。https://thirdhour.org/blog/faith/post-truth-and-anger-in-the-book-of-mormon/
「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」(2テモ4:3-4)
なぜ、耐えられなくなってしまうんでしょうかね。
採集家タムラさん、コメントありがとうござます。引用してくださった聖句はまさにポスト真実の例えですね。健全な教えなのに耐えられなくなってしまう理由はいくつか考えられます。
自分の欲求や願望が教えに沿っていないということで、厳しい教えについていけないと感じることです。また、疑いの心です。疑いの心があったら教えを守ることが難しく感じます。またほかの教えに魅力を感じることもそうですね。ほかにも高慢やかたくなな心などあります。これは人の弱さとも言えるでしょう。弱さのために真実を分かっていても、自分の心地よい方へと心が向いてしまうのでしょう。天使に会っても奇跡を見ても、そのうちそれを否定するようになる、という話が聖典にあります。モルモン書の中のレーマンとレムエルもそうです。よかったら読んでみてください。https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/bofm/1-ne/1?lang=jpn