マーク・ジョセフ・ベリーニは1964年1月19日に、カリフォルニア州で、マイクとジョイ、ベリーニ夫妻の子供として生まれた。彼にはマットという弟がいる。彼は、ブリガム・ヤング大学(BYU)で、大学フットボールのオールアメリカン・プレイヤーだった。彼は、1982年から1986年にクーガースでワイド・レシーバーを務めていた。学生としては、動物学を専攻した。

mark-bellini-mormon-byu-cougarベリーニは常にスポーツマンだった。高校生の時はフットボールで二度、野球で一度、バスケットボールで一度レター表彰された。彼は、極めて優れたオフェンシブ・バック、ディフェンシブ・バックであり、チームMVPに投票で選ばれた。彼はまた、地区代表のランニング・バック、ディフェンシブ・バックであり、国代表のディフェンシブ・バックだった。彼は、サン・レアンドロ地区で、イタリアン・アスリート・オブ・ザ・イヤーに指名された。

彼は、1987年のNFLドラフトで、インディアナポリス・コルツに7位(全170位中)獲得された。コルツのワイド・レシーバーとして、1987年から1988年の2シーズン、NFLフットボールでプレーした。

ベリーニは、カトリックに生まれ育ち、末日聖徒イエス・キリスト教会(一般的にモルモン教会と言われることが多い)の改宗者でもある。彼は、環境工学の修士号をBYUで取得した。ユタ州ミッドウェイに住み、生物学者であり、環境コンサルタントである。現在自営で、自宅をオフィスに環境影響プロジェクトに取り組んでいる。結婚し、9歳から25歳の6人の子ども(5人の娘とダウン症の息子がひとり)がいる。

彼は、小さな頃からフットボールをしたかったと言っている。小柄過ぎるし、スピードも足りないと言われていたにもかかわらず、その目標を見失うことはなく、1982年、彼が大学1年生の時に彼の努力と根気強さが実を結んだ。BYUで控え選手になり、学校代表チームの一員になった。実に彼は、控え選手で学校代表チームとして遠征する数少ない1年生のひとりで、ジョージアに遠征した唯一の1年生だった。二軍戦で負傷したため、学校代表チームの一員としてのプレーはシーズン途中で終わった。

1983年のシーズンには、赤シャツだった。1984年、レシーバーのローテーションに組み込まれ、シーズン後半を迎えた。タルサ戦で141ヤード、4キャッチ、そしてエア・フォース戦とUTEP戦で4キャッチ、50ヤード、1タッチダウンで、レーシーバー・オブ・ザ・ウィークになった。ホリデーボウルの対ミシガン戦では、48ヤード、3パスだった。トータル35パスは、2年生としては最高タイ記録である。彼はまた、1984年のナショナルチャンピオン・チームのオールアメリカン・ワイド・レシーバーであった。

1985年、BYU3年生の時、ベリーニは、UPI通信社の2軍オールアメリカン、AP通信社の3軍オールアメリカン、1軍オールWAC選抜に指名された。1試合平均5.7キャッチで全国10位、得点(7.6)とレシービングでWAC3位で終えた。肩脱臼のため、ニューメキシコ戦とUTEP戦には出られなかった。シトラスボウルのオハイオ州立戦では87ヤード、5キャッチ、そしてテンプル戦では、9キャッチ、179ヤード、3タッチダウンだった。

ベリーニは、種々な個人の表彰と栄誉を受け、1986年シーズンを持って、計146レセプション、2429ヤード、23タッチダウンでBYUでのプレーを終えた。(彼の弟、マット・ベリーニは、同じようにBYUでフットボールをし、後にLDS教会に加わる。)

ベリーニが、BYUに通っていた時、末日聖徒イエス・キリスト教会(LDS、モルモン)の会員ではなかったが、卒業条件である授業にモルモン書のクラスがあった。そのクラスは、彼の好きな授業となり、後に彼にバプテスマを施す教師、ジョン・P・フューガルと温かい友情を築いた。

「僕がBYUに行ったとき、モルモンではありませんでした。」ベリーニは語った。「でも、モルモン書のクラスを取っている時、その本について温かい気持ちを感じました。数ヵ月後、先生からバプテスマを受け、僕はその決断を幸せに感じました。」

「自分の中に葛藤もあったけれど、心の中でそれが真実であると分かっていました。それを否定することはできませんでした。」ベリーニは言った。「モルモン書は、僕の証の基礎となりました。」

1984年のカレッジ・フットボールのナショナル・チャンピオンシップでBYUが優勝して1ヶ月経つ頃、ある寒さの厳しい金曜日の朝、クーガースのワイド・レシーバー、マーク・ベリーニと宗教学教授、ジョン・P・フューガルは、マークがクラスへと急ぐ中出くわした。それは、「BYUナショナル・チャンピオンズ」と書かれた多くのバナーの近くだった。2人とも少し立ち止まり、そのサインに見ほれると、このように会話した。

「君たちは、成し遂げたことを誇りに思っているだろうね。」フューガルが言った。

「はい。」ベリーニが答えた。「もちろん。」

するとフューガルは、フットボール選手が決して忘れることができないことを口にした。

「彼は僕の目を見てこう言いました。『それよりも、高揚させてくれるものを知っているよ。準備ができたら、電話して。』」ベリーニは、最近、声を詰まらせて当時を語った。「彼は、教会に入ることについて言っていたのです。3週間後、バプテスマを施してくれるように頼みました。」

そのバプテスマは、1985年3月16日に行われた。それは、チームメイトが何人か出席した控えめな会だった。フューガルがバプテスマを施し、クォーターバックで近しい友人のマイク・ヤングが、ベリーニを末日聖徒イエス・キリスト教会の会員として確認した。集会は感動的かつ印象的だったと、フューガルは言っている。

クーガースとしてのベリーニの功績にはもちろん意義があるが、25年後、彼は、イエス・キリストの福音とそれが人生にもたらした影響に最も感謝している。

「ナションナル・チャンピオンシップは、人生のハイライトでした。でも、そのような功績は一時的なもので、時が経てば皆忘れてしまうか、気にしなくなります。」ベリーニは言った。「福音は真実で、決して色あせることはありません。」

「御霊を近く感じる時と遠くに感じる時を経験してきました。・・・自分自身では無理だということに気がついたのです。人生に神様の祝福が必要でした。」ベリーニは言った。「御霊を求め、キリストの教えに従おうとする時、人生は本当に祝福されます。」

「教えに従って生活しましょう。幸福へと導いてくれます。」