神様は昔の聖書に出てきたように、今でも私たちに語りかけるのでしょうか?イエス・キリストの声、主の声を認識するとはどういうことでしょうか?特別に選ばれた人じゃなければできないのでしょうか?
神はどのような答えをどのようにくださるでしょうか?
モルモン書の人物、ベニヤミン王の説教から学んでみましょう。これは彼の最期の説教であり、自分が王の位を譲ると宣言した時に与えられました。モーサヤ5:12-13で王は次のように言っています。
「わたしはあなたがたに言う。あなたがたはこの名(キリストの名)をいつも心にしっかりと記しておくことを忘れないようにしてほしい。そうすればあなたがたは、神の左に見いだされることがなく、自分がどの声で呼ばれ、どの名で呼ばれるかが聞いてわかるであろう。なぜならば、仕えたこともなく、見も知らぬ他人で、心の思いと志を異にしている主人を、どのようにして人は知ることができようか。」(モーサヤ5:12-13)
この聖句は主のことを述べています。モルモン教の会員たちは、聖霊を通して主の声を聞くことができると教えられています。中には時々あることですが、これは声を文字通り聞くということではありません。個人の生活について神からの直接の導きを受ける能力について述べています。聖書では、神は教義を預言者だけに伝えられることが分かりますが、すべての人は自分のことについて神に助けを求めることが許されています。例えば、教会の託児クラスの教師である私はどうしたらクラスの子供たちが敬虔になり、難しいレッスンを教え、クラスのスケジュールの立て方について神から導きを受けることができます。でも私のクラスだけでなく、子供たち全体のことについては私はその担当ではないので、それについての啓示を受けることはできません。
モルモン教の十二使徒のラッセル・M・バラードは次のように述べました。
「私の今の責任が終わってしまえば、私のした説教で主の目から見て非常に重要なものはなくなるでしょう。しかし主にとって大切なのは私が主の声を聞き、主の促しに応えるかどうかということでしょう。」(「御霊の促しに応える」〔ラッセル・M・バラード長老との夕べ、1988年1月8日〕4、www.ldsces.org)
自分の祈りに神が答えておられるのはどのようにして知るのでしょうか?
心の中にたくさんの声、アイデア、思いがあると、どうしたらそれが本当に主が私に語りかけていると分かるでしょうか?何かが真実であるかどうか知るには祈ってみるように、というモルモン教のアドバイスには耳を傾けないように言う人が時折いるかもしれません。誰が祈りに答えているかを知る方法などないと説明するかもしれません。
それがクリスチャンから出た言葉だとしたら少し悲しいことです。聖書は繰り返し、祈れば神が答えてくださると教えているからです。(新約聖書ヤコブ1:5)モルモン教では神を信じています。神は答えてくださると言っておられるのですから神はその答えが神からのものか私たちが認識できるように教えてくださると推測することができます。13節にはその疑問に対する答えが明確にあります。主の御声を認識するには主に仕え、心と思いを主に近く保たなければならないと言っています。聖書のヤコブは揺らぐことなく信仰を持って尋ねなければならないと言っています。これらの聖句はあだ尋ねるのは十分でないと警告しています。わたしたちは答えを得るために何かを実際にする必要があります。私たちは信仰を深め、神に仕え、心の中に神を保たなければなりません。
私たちが神に話す時間をさらに取って答えを静かに待つなら、私たちに話しかけておられるのが誰かもっと容易に理解できるようになります。答えはどのようにして来るのでしょうか?ほとんどの場合、それは気持ちあるいは印象という形でやってきます。私たちは問題を吟味し、決心をし、それから自分の選択が正しいか神に尋ねます。もし温かな、正しいという慰めの気持ちを感じるなら、わたしたちは正しい選択をしたということが分かります。このためには何度も祈り、答えを本当に欲しいということを神に示す忍耐が必要です。あるいはさらに学び準備する時間が必要かもしれません。
時々、直接の思いが心の中にやってきます。ある日、私は原稿のテーマを考えていました。自分がライターとして、またはクリスチャンとして成長する助けとなる何か非常にやりがいのあるテーマが欲しかったのです。それは全く思いもかけない考えで、自分が考え出したものではありませんでしたが、このような思いはよく感じていたので、私は自分が単に頭で考えたものとは違うことが分かったので、それに従いました。これらは印象と呼ばれ、それは霊的な真理や実際のことについてもあります。
実際の声が聞こえることは滅多にあることではありません。これはすぐに道路をよけないと、コントロールを失ったトラックが私の車に向かって飛び出しそうになった時に起こりました。考える時間がなく「あれは印象だったのかしら、あるいは気の迷いだったのかしら?」興味深いことに夫は近くを運転していて、突然私たちがいた道路の方に向かおうという瞬間的に感じました。彼は道の脇に止まった車の中で恐怖で震えている私を見て、運転を続けられるように助けてくれました。
私たちが答え、あるいは答えかもしれないものを受ける時、それがどのようにもたらされたかを日記に記すことができます。それから最後の結果を見ることができます。そのうちにどのような感覚や思いが神から来たものか自分の思いかわかるようになります。
やる価値のあるものと同様に、祈りは答えを正しく受けるために時間を取る価値のあるものです。
ぜひモーサヤ5章をオンラインのモルモン書で無料で読んでみてください。
この記事はテリー・リン・ビットナーがLDSblogs.comに投稿したもので、高根澤リエが翻訳しました。
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