末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は、保守的な服装や振る舞いの標準に従っています。モルモンが避けている流行の一つは入れ墨です。この立場に関連した教義は、身体の神聖な性質と神に愛を喜んで示すという姿勢です。

内容

身体が神殿

第1コリント人への手紙の中で,わたしたちの身体は神の神殿と同じように神聖なものだと学びます。「あなたがたは神の宮であって,神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が,神の宮を破壊するなら,神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら,神の宮は聖なるものであり,そして,あなたがたはその宮なのだからである。」[1] わたしたちの身体は愛のある天の父がわたしたちに下さったもので,神のわたしたちに対する永遠の計画の重要な部分に位置します。わたしたちはその身体をそれらしいものとして扱い,意図的に傷つけるようなことを避けなければなりません。身体を聖なる方法で扱うという意味は,入れ墨をしないようにしたり害になる物質をとったりしないということです。

 

預言者たちは入れ墨をしないように勧告している

末日聖徒の預言者はわたしたちに入れ墨をしないように勧めています。末日聖徒イエス・キリスト教会で出版されている標準についてのパンフレット(「若人の強さのために」)では,大管長会(大管長とその二人の顧問)は入れ墨のことを「醜くすること」だと呼び,率直にわたしたちが身体をそれによって損なわないように勧めています。

ある人々は自分の表現として入れ墨をするのだといい,自分にとって意味のあるデザインを選ぶのだと言います。多くの人々にとって入れ墨が意味のあることかも知れませんが,預言者の勧めに注意を払うことの大切さは薄れることがありません。第1コリント人への手紙で,パウロはわたしたちの身体を神殿であると教えた後で,続けています。「だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに,自分がこの世の知者だと思う人がいるなら,その人は知者になるために愚かになるがよい。」[2] わたしたちの預言者はこの時代に存在している危険について知っていて,わたしたちが永遠の生命への道に留まるためにすかさず警告を与え,必要な指示を与えてくれます。入れ墨は長い目で見たらそれほど重要なことではないと思われるかも知れませんが,意図的に入れ墨をして預言者の勧告に反することは,自分の身体と神御自身に対して不敬であることになります。

 

入れ墨のある教会員も愛される

入れ墨があるからといってイエス・キリスト教会にバプテスマを受けて入ることを拒まれることはありません。入れ墨のある教会員も,神の戒めに従っている限りは会員との資格が完全に与えられます。その点ではほかの会員と何ら変わることがありません。ある人たちはバプテスマの前に入れ墨をしていて,ある会員はお休み会員であった時に入れ墨をしたかも知れません。神はその子供たちのすべてを外見に関わりなく愛して下さいます。そしてもし神に悔いる気持ちでやって来るならば,入れ墨は神の王国で奉仕するのを妨げるものではありません。[3]

入れ墨をした事で一番悪い結果は,しばしば個人的な悔いを感じることです。しかし場合によっては,神の戒めに意図的に不従順であることによって,ほかのもっと深刻な律法を破ることにつながることがあります。 小さな戒めを守ることによって,大きな戒めを守ることがやさしくなります。

神はわたしたちを愛しておられるので,わたしたちに勧告や戒めを与えて下さいます。神はわたしたちがもっと神のようになれるように身体を与えて下さいました。入れ墨はその身体を汚すもので,それを除くには痛みが伴い,高価です。今は亡くなったイエス・キリスト教会の以前の預言者であるゴードン・B・ヒンクリーは次のように語っています。「入れ墨をすれば,自分のした事を後悔すると約束します。」[4] わたしたちの身体は神から与えられた美しい贈り物です。そのようなものとしてそれを扱う必要があります。身体を神聖な思いで扱うことは自分と神に対して愛を示すことになります。

 

参考資料

3:16-17

3:18

この例外は伝道に出たいと思っている若い男女の場合です。入れ墨が専任宣教師になることを必ずしも妨げることはありませんが,どこで奉仕するかについての限定を受けるかもしれませんし,場合によっては,全く宣教師になれないかもしれません。宣教師に対する振る舞いの標準は保守的で厳格です。宣教師はイエス・キリストの専任の代表者ですから,それにふさわしい服装と行動が求められます。覆い隠すことのできないか,あるいは不適切な入れ墨は宣教師として奉仕する機会を失う可能性があります。これらのケースは個人個人別々に教会の宣教師部門で扱われます。

「1人の預言者の青少年に対する勧告と祈り」,ゴードン・B・ヒンクリー