完璧主義者は人間の弱さを許さない

罪と弱さの違いを理解することは非常に重要です。リアホナに掲載された『弱さは罪ではない』という記事の中で、わたしが今まで読んだ中で最もすばらしい説明があります。著者ウェンディー・ウルリヒは罪の定義を、神の戒めに故意に従わないことや、自分の内にあるキリストの光に故意に背くこと、としています。彼女の弱さの定義は、人間であるがゆえに知恵や力、清さに限りがあること、です。

「弱く死すべき状態にあるわたしたちは、心身の病や飢え、疲れに苦しみます。怒りや悲しみ、恐れなど、人間的な感情が湧き上がるのを経験します。知恵や技術、持久力、力に欠けています。それに、さまざまな誘惑に遭います。」

まさに自分のことを読んでいるようでした。それなのにわたしはずっと人間であることの現実を受け入れようとせず、弱さを悔い改めようとしていたのです。

弱さを悔い改めることはできるのか

ウルリヒ姉妹は続けて言います。

「わたしたちは弱さを悔い改めることなどできませんし、弱さがあること自体が人を汚すのではありません。わたしたちは、罪を拒まない限り霊的に成長することができませんが、それだけでなく自分の人間的な弱さを受け入れて、謙虚な態度と信仰を持ってそれに対応し、弱さを通して神に頼ることを学ばない限り、霊的な成長はないのです。…わたしたちはたとえ自分の罪を心から悔い改めて赦しを得、再び清くなったとしても、弱いことに変わりはありません。…しかし、限界や力不足は罪ではなく、清くなって御霊を受けるための妨げにはなりません。」(ウェンディー・ウルリッヒ『弱さは罪ではない』リアホナ2015年4月号20ページ)

神様は罪には赦しを、弱さには恵みを与える

ウルリヒ姉妹の記事にはある2つの表が載っています。ひとつは罪と弱さのそれぞれの特徴を示した表(リアホナ2015年4月号23ページ)で、もうひとつは建設的な罪悪感(神の御心に添った悲しみ)やへりくだる心と無益な偽物の自責の念との違いを示した表(リアホナ2015年4月号25ページ)です。わたしではとてもできないくらい重要な点がうまくまとめられているので、ぜひ実際に読んでいただきたいです。これらの違いをよりよく理解し、自分の生活に盛り込むためにこの記事を何度も何度も読み返しました。わたしにとって最も重要な点はおそらく、神様は悔い改めた罪には赦しを下さり、弱さには恵みを与えてくださる、ということでしょう。聖書辞典(Bible Dictionary)によると、恵みとはわたしたちの力では不可能なことを可能にしてくれる神からの力とあり、また、言葉の主な意味は、イエス・キリストから惜しみなく与えられた愛と哀れみを通してもたらされる神聖な力と助けです。恵みとはキリストがわたしたちの『弱さを強さにする』ための神から与えられた治療法なのです。わたしたちは、恵みを通してのみ『キリストによって完全になる』ことができます。しかし、ジョセフ・スミスや他の指導者たちは、完全になることはこの世の生活の後にも続く長い過程だといいました。

モロナイ書10章を勉強すると、それがどのような過程なのかわかります。32節と33節によくまとめられています。

「まことに、キリストのもとに来て、キリストによって完全になりなさい。神の御心に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み、勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば、神の恵みはあなたがたに十分であり、あなたがたは神の恵みにより、キリストによって完全になることができる。そしてあなたがたは神の恵みによりキリストによって完全になれば、決して神の力を否定することができない。さらにあなたがたは、神の恵みによりキリストによって完全になり、神の力を否定しなければ、神の恵みによりキリストによって聖められる。それはキリストの血が流されたことによるものである。キリストの血が流されたのは、あなたがたの罪の赦しのために御父が聖約されたことによるものであり、それによってあなたがたは染みのない清い者となるのである。」

神は、わたしたちがへりくだり神の助けを求めるように、私たちに弱さを与え、神なくしては完全になれないようにされました。(エテル12:27)人間の弱さは現世の生活において欠くことのできない目的のおいて重要な役割を果たします。ウルリヒ姉妹によると、その目的とは『善と悪を見分けることを経験から学び、知恵を深めて技術を磨き、自らの価値観に従って生き、神の特質を身につける』ことだといいます。そして彼女はまとめにこう言っています。

「神は、わたしたちが自分の人間的な弱さと格闘するとき、それを計り知れない神の徳や強さに変え、わたしたちをさらに神に似たものにしてくださいます。神の力の中で、神の愛と知恵と願いの力がこれほど明らかに表れているものは、他にありません。」

この原則さえ覚えていれば、完璧主義の癖から抜け出すこともできるでしょう。

主から頻繁にいただく招きを断る理由はあるか

主は「わたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)という慰めに満ちた呼びかけをされています。それを拒絶する理由があるでしょうか?完璧主義者はなんでも自分ひとりでしなければならないと思い込んでいます。その問題なしにも、主のもとに来ることによって、すでに「重荷を負っている」のにさらに課題を与えられるのではないかと思ってしまうことはないでしょうか。主からの招待の意味をよく考えて見ましょう。

「すべて重荷を負うて苦しんでいる者はわたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

わたしたちに与えられた課題が何であろうと、主とくびきを共にすることによって彼の力が共にあるので、重荷は軽くなるのです。わたし自身、主に助けを求め、彼とくびきを共にしたことによって、重荷自体は取り去られませんでしたが、重荷がとても軽くなったと感じた経験が何度もあります。

主の最初の対応は励まし

聖典の中で、課題を受けたり戒めを与えられた人々が「主のもとへ来る」とき、励ましと慰めがどのようなパターンで与えられるかを研究することも必要です。たとえば、第三ニーファイ10章で人々は「火と煙、暴風雨、旋風、それに人々を飲み込む地の避けた穴…による死と破壊」(第三ニーファイ10:14)に見舞われていました。生き残った人々によると、このような破壊は三日間続き、人々は三日三晩暗闇の中で過ごしたそうです。わたしは洞窟の中でほんの数秒間だけ暗闇を経験したことがありますが、それだけでも十分怖かったです。この人々は精神的にひどい衝撃を受けたでしょうか?彼らは励ましや慰め、償いや癒しを必要としていたでしょうか?そうに違いありません。そしてそれこそまさに、キリストが彼らひとりひとりを祝福し、癒されたことによって与えられたものなのです。人々が任務や教えを与えられたのはその後でした。わたしたちが「キリストのもとへ来る」ときにまず与えられるのは励ましと慰めです。主のもとへ行くのが楽しみになるでしょう。そして、忘れてはいけないのが、救い主が訪れられた人々は、完璧ではありませんでした。亡くなった人々に比べて「より義人」だったのです。

結論

弟子とは完璧な人ではなく、神様を信頼し、キリストを愛し、神聖な助けに完全な信頼を置く人のことを言います。『モルモン書の出現』という記事の中で、マシュー・S・ホランドは次のように言いました。

「皆さんはジョセフ・スミスがそうであったように、主の御手に使われる、力ある者となるために完全な生活を送っている必要はありません。過ち、失敗、そして混乱は、ジョセフの生涯と使命に付き物でした。そして皆さんの生涯にも、同じように付いて回ります。でも、がっかりしないでください。『全てが失われた』と考えないようにしてください。全てが失われることはありませんし、憐れみの神を頼って生きる人が失われることは決してないのです。皆さんには、皆さんを見守り、皆さんを救助する備えができていて、皆さんの腕よりもはるかに力強い御腕で、皆さんの奉 仕の力を強めてくださる長兄がいます。実際、その御腕は肉ある者の全ての腕を合わせた力よりも、はるかに強いのです。 その御腕は皆さんがどれほど孤独であっても,またどれほど 落胆したりしていても、『苦難のときには、いつも』皆さんを支え(教義と聖約 3:8)、祝福するためにすぐそこにあるのです。ですから、皆さんが人生の歩みを進めるとき、その御腕を信頼してください。『あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう。』(申命 31:6) ジョセフはこのことを見いだし、世界を変えました。皆さんにもそれができるのです。」(マシュー・S・ホランド、リアホナ2015年7月号25ページ)

わたしたちは少しずつでも、サタンの偽りの福音である完璧主義の考えを拒み、イエス・キリストの真実の福音を受け入れることができます。キリストの真の福音はわたしたちに主の安息に入り、主の赦しと恵みを受けるよう招くのです。キリスト以外のものへの希望は偽りの希望です。キリストこそが、慰め、安全、聖別、そして救いの唯一の源です。彼こそが、救い主なのです。

 

この記事はDarla Isacksonによって書かれ、ldsmag.comに掲載されたものです。